日の丸

 日本人にはあまり馴染みのない組織だが、フリーメーソン
と言えば世界最古にして最大の秘密結社である。
BC960年、古代イスラエル王ソロモンは、
エルサレムにヤハウエ神殿建設に着手し、11年後に完成。
この時実際に建築を指揮したのが、フェニキア・テュロス市
の王・建築師ヒラムである。
 ヒラムの弟子たちは、徒弟・職人・親方の3階級に
分かれ、建築に関わる知識や技術を秘密裡に伝承してゆく
組織を形成したという。組織の象徴は「直角定規とコンパス」。
王宮や大寺院を建設する業は「帝王の術」と呼ばれ、
ピラミッドやノアの箱船など、古代の高度な叡智を保持
する「宇宙の偉大なる建築者」としての誇りを保持して
いた。
 フリーメーソンとは「自由な石工」を意味する。
西洋建築と言えば石造り建築をイメージするが、ソロモン
神殿にはレバノン杉などの木材もふんだんに使用されていた
という。その意味で大工というニュアンスも含まれている。
世界一有名な大工と言えば、イエス・キリストの父ヨセフ
だろう。彼もまた、自由な石工の同業者組合員であったと
思われる。
 さて、フリーメーソンの象徴である直角定規とコンパス
だが、意外な所に登場する。中国神話である。始めに
天地創造の神・ばんこ盤古があった。続いて人間と文明
を創造する神・ふくぎ伏羲とにょか女?が登場する。
女?は黄土の泥から人間をつくった。
人々は女?を婚姻と子授けの神として祀った。
 伏羲は人々に、火を使って料理する方法や網で動物を
捕らえる術を教え、文字や易経を伝授した中国文明の祖
である。この2神は結婚する。その際、大木の回りを
お互いが反対方向に回る儀式を行ったという。
 伏羲は「さしがね矩」という直角定規を、女?は
「ぶんまわし規」というコンパスを手にしている。
直角定規は四方(地)、コンパスは円(天)の象徴である。
旧約聖書の神ヤハウエもこれらの道具で天地創造を行った
とされる。この「矩と規」で描けるものが「日の丸」だと
言ったならば、話が飛躍し過ぎると思うだろうか。
 日の丸の赤い円は、太陽神・天照大神の象徴とされている。言うまでもなく、
日出ずる国・日本の皇祖神である。天照大神はイザナギ・
イザナミ2神より生まれた。両神はおのごろ島で国生みを
行った時、あめのみはしら天御柱の周りをお互いが反対
方向に回ったという。この点、伏羲・女?神話に酷似
している。
 加えて言うなら、伏羲・女?の後に登場する炎帝神農は、
人身牛首の天候神で、医薬と商業の神でもある。
シリア・メソポタミア地方でバール神として広く信仰され
ている牛の角を持った神を、韓国では「スサ」と呼んでいる。
天照大神の弟、スサノオ(牛頭天王)である。
 日の丸が旗として歴史に登場するのは、1056
(天喜4)年の事。清和源氏・八幡太郎義家の父・源頼義が、
ご後れいぜい冷泉天皇から下賜された「みはた御旗」
である。
御旗は太郎義家の弟、甲斐守新羅三郎義光を経て、
代々武田家惣領に受け継がれ
た。武田軍出陣の際には、惣領以下重臣全員が御旗と
重代の鎧・楯無の前に額ずき、「御旗・楯無、御照覧あれ」
と2度唱和する慣わしがあった。
 武田信玄の宿敵と言えば上杉謙信だが、ここにも紺地
日の丸の旗が翻っていた。この旗は、謙信の父・長尾為景が
1535(天文4)年6月、勅許と共に下賜されたもので
「禁裏の御旗」と呼ばれていた。武田・上杉両軍の日の丸は、皇室
が出所という事になる。
 現在の国旗の源流は、1854(安政4)年に薩摩藩主・
島津なりあきら斉彬が、日本の船舶の船印として日の丸を
用いる事を幕府に進言し、幕府から全国に通達され
たのが始まりである。京都の朝廷と親しかった薩摩藩の
事ゆえ、やはり日の丸の出所は皇室と見るのが妥当かと
思う。
 それにしても日の丸は、本当にフリーメーソンの象徴
なのだろうか。禅僧のように「それがどう見えるかによる」
とでも答えておこうか。そう言われれば、そう見えなくも
ないのである。やれ世界支配を目論む組織だとか
、噂が乱れ飛び、どこまでが本当でどこからが誤解なのか、
さっぱりわからないのがフリーメーソンだからである。
 1771年バプテスマのヨハネの日に、いくつかの
集会所(ロッジ)が統合してグランドロッジが誕生。
これを近代フリーメーソン設立の年としているのだが、
設立者も目的も不明とあっては、やはり怪しい。現在
世界150ヶ国に600万人の会員がいるというが、
日本人は300人足らずとか。
 フリーメーソンで有名なのは、自由の女神の台座に
「この像はフランスのフリーメーソンからアメリカの
フリーメーソンに送ったものである」と書かれている事。
フランス革命の主要メンバーの大半がメーソンだった事。
ドル紙幣の「目」もまた、メーソンの象徴として用いられて
いる事などだ。
 日本を訪れたメーソン第一号は、黒船のペリー提督。
坂本竜馬と親しかった英国シャーディン・マセソン社の
武器商人、トーマス・グラバーもメーソンとして知られて
いる。彼のもたらした銃によって薩長同盟が成立し、
統幕に至るのである。
 黒船による開国から明治政府の富国強兵政策。
日露戦争の膨大な外債をユダヤ財閥が引き受け、
金解禁を行わせ、大恐慌を引き起こし、軍人を煽って泥沼の
15年戦争へ。このシナリオがすべてフリーメーソンの
謀略だとしたなら・・・
その先頭に常に日の丸が翻っていた事を思うと、何とも
複雑な思念が交錯するのであった。
posted by 亀松亭 at 16:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

真珠湾攻撃

 1941(昭和16)年12月1日。御前会議で日米開戦の
聖断が下された。これを受けて連合艦隊司令部は、南雲忠一
中将が指揮する機動部隊司令部宛に、「新高山登レ一二〇八」
という暗号電文を発信した。12月8日午前0時をもって、
日米開戦の「Xデー」とするという意味だった。
 山本五十六大将率いる海軍連合艦隊は、11月26日までに
エトロフ島のヒトカップ(単冠)湾に集結し、ハワイの
米太平洋艦隊基地があるオワフ島を目指して出港していった。
 編成は旗艦である戦艦「長門」のほか、「赤城・加賀・
蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴」の空母6隻。軽巡1・重巡2・
補給特務艦7・哨戒潜水艦3など、計30隻。新高山の
電文を受信した時、機動部隊はオワフ島の北北西1400
マイル地点にまで達していた。
 仕事を成功させるには、段取り八分だという。日本海軍の
情報機関はこの時点で、真珠湾内の艦船総数、艦名、碇泊
位置、艦隊や潜水艦の行動状況、守備状況から、ヒッカム
飛行場格納庫の屋根の厚さまで、詳細な情報を入手していた。
 「6日午前。北からネバダ、アリゾナ、テネシー、
ウエストバージニア、メリーランド、オクラホマ、
カリフォルニア、ペンシルバニア、ユタ碇泊中。他軽巡3、
潜水母艦3、駆逐艦17繋留。臨戦準備態勢にあらず。」
この、ホノルル発の暗号電文を受信した南雲は、奇襲の
成功を確信したという。刻々の情報は、攻撃機発艦の
3時間前まで発信されていた。
 爆撃前、戦闘パイロットたちは「鉄火巻・玉子焼き・
松茸と大根、人参の煮しめ・リンゴ・紅茶」といった戦闘食
で気合いを充電していた。この他にも、赤飯・ボタもち・
みつ豆・コーヒー・少量のウィスキーなどのメニューが
あった。ただ基本的に日本人は、いつの時代でも握り飯・
沢庵・味噌汁の3点セットが欠かせない。
 7日午前6時(ハワイ時間)。オワフ島の北300キロに
達した機動部隊は、攻撃機を次々に発艦させた。空母・赤城
の戦闘機隊長・板谷茂少佐は零戦に、総指揮官の淵田美津夫
中佐は、800キロ爆弾を抱いた水平爆撃機の偵察席に
乗り込んだ。
 映画などでは、攻撃前の最も緊張した場面で、決死の覚悟
で互いに握手し合い、悲壮な表情で飛び立っていった事に
なっている。だが実際はいたって平静であり、淵田中佐
などは、「おっ、じゃ、ちょっと行ってくる」と、
隣に酒か煙草でも買いにいくような格好だったと、源田実
航空参謀が証言している。
 第一次攻撃隊は、戦闘機43、艦爆51、雷撃機40、
水平爆撃機49の計183機。ハワイの放送局からは、
軽快なジャズが流れていた。やがて後続の第二次攻撃隊
147機も発進。一路オワフ島真珠湾を目指した。
 午前7時55分。ヒッカム飛行場の爆撃を手始めに、
艦船と飛行場に魚雷と爆弾が間断なく降りそそぎ、次々に
大破・炎上。淵田は司令部宛に、
「トラ トラ トラ (我 奇襲に成功せり)」と発信した。
 その結果、戦艦5沈没、戦艦1大破、軽巡2・駆逐艦1
中破、飛行機300機破壊、戦死・行方不明者2404人、
重軽傷者627人。これに対して日本軍は、戦闘機29機
を失ったのみという、絶大な戦果となった。
しかし、ワシントンの日本大使館が最後通告の英文翻訳に
手間取り、米国民に「スネーク・アタック(だまし討ち)」
として語り継がれる事になる。
 12月8日午前7時(日本時間)。日本全国のラジオ
からは、臨時ニュースが声高にアナウンスされていた。
「臨時ニュースを申しあげます。大本営陸海軍部発表。
帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と
戦闘状態に入れり。」
続いてその夜、ハワイ急襲の大戦果が発表され、日本
国民は大勝利に湧き返った。こうして200万余の
戦死者を出す事になる、太平洋戦争が始まったのである。
 その真珠湾攻撃から4年後。航空戦闘隊長の淵田美津夫
中佐は、運命の糸に導かれるように、原爆投下後の広島の
廃墟に立つ事になる。日本人が「ノーモア・ヒロシマ」
と言えば、アメリカ人は「リメンバー・パールハーバー」
と言い返す。淵田は二つの言葉の板ばさみになった。
 淵田はその後キリスト教に改宗し、全米1千ヶ所
あまりを布教して回った。淵田の座右の銘は、ルカに
よる福音書第23節34節、
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか
わからないのです」だった。
posted by 亀松亭 at 16:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

香港攻略戦

 1941(昭和16)年12月8日というと、ハワイ真珠湾
攻撃があまりにも有名だが、日本軍は午前0時を期して、
英領香港・フィリピン・マレー・シンガポール・ビルマ・
ジャワへも一斉に戦闘を開始したのである。
 当時の英領香港は、米英仏などから中国・蒋介石軍への
援助物資が集結し、ジャーデン・バターフィールド・
ドッドウェルという船舶会社によっての輸送が行なわれ
ていた。シンガポールと共に英国の二大拠点だった香港は、
ビクトリア要塞の砲門が全島を覆い、九龍半島もいたる所
に地雷が埋設されていた。
 日本軍部は、日中戦争を遂行する上で極めて重要な
香港攻略の計画を早くから進め、1940(昭和15)年
7月には、陸軍最強の第一砲兵隊を含む攻城砲部隊の
編成が行なわれた。陸軍は酒井隆中将率いる第二十三軍2万。
海軍は新見政一中将率いる第二遣支艦隊の合同作戦と決した。
 第二十三軍の主力は、佐野忠義中将率いるの第38師団と
第1砲兵隊。土佐秀治大佐指揮下の陸軍航空隊は、
広東市の天蓋飛行場・白雲山飛行場に、戦闘機「隼」・
九七重爆など200機で待機していた。
 一方香港島北西「青衣島」南方海上には、砲艦「橋立」
「宇治」「嵯峨」、軽巡「五十鈴」・駆逐艦「栂」
哨戒船「東照丸」・第11水雷戦隊、第6駆逐隊、陸戦隊、
第4掃海隊の大小艦船が集結していた。
 8日0時。深川に集結していた第38師団は、土井定七
大佐の歩兵228連隊、田中良三大佐の歩兵229連隊、
東海林俊成大佐の歩兵230連隊の3 隊に分かれて九龍
半島へ進撃を開始した。行軍中は工兵の地雷探索隊が先兵
となり、鉄棒で道路をコツコツ叩きながら進む。カツンと
地雷に当たると、その周囲を白墨で丸く囲って目印をつける。
それを工兵の地雷処理部隊が処分し、安全が確認された
ところで戦車兵、砲兵、歩兵が続くわけである。
 道路でさえ地雷が埋めてあるのだから、脇にそれて
雑木林の中へ踏み込むと、すべて地雷源だと思ってよい。
木と木の間の細い針金がめぐらせてあり、
触れるとたちまち信管が作動するトラップである。
行軍中、大小便の為に脇にそれて、地雷に殺られた兵も
少なくなかった。この為大小便も道路上で行なった。
 その道を、重砲兵第1連隊の四五式24センチ榴弾砲
8門、15センチカノン砲16門、15センチ榴弾砲6門、
15センチ臼砲12門が、黒光りする砲身を冷たく
輝かせながら運ばれていった。24センチ砲の砲弾は、1発
1.5メートル。トラック1台で1発運ぶのがやっとと
いう重量だった。弾薬を運ぶトラックの列の後には、
深いわだちができた。
 9日。中央の土井228連隊は、沙田海・城門貯水池・
針山を結ぶ「ジン・ドリンカーズ・ライン」と呼ばれる
英国九龍防衛陣地線に達し、九龍城の水脈
である城門貯水池に夜襲をかけて奪取した。
 230連隊の野口挺身隊350人は、12日午前7時
30分、九龍市内に突入。9時頃までに完全制圧した。
英軍は九龍要塞に戦車を繰り出して激しく抵抗したが、
田中229連隊の猛攻に押されて後退を余儀なくされた。
こうして13日までに日本軍は、九龍半島全域を制圧した。
 14日からは四五式24センチ榴弾砲が据え付けられ、
香港島要塞に向けての砲撃が始められた。陸軍航空隊の
九七軽爆撃や隼は、啓徳飛行場の英空軍機に対して
壊滅的な打撃を与えた。兵士たちは、新たに米4日分と
缶詰、通常の倍に相当する240発の予備弾薬と手榴弾
数発が支給され、香港島上陸作戦の準備が整えられていった。
 18日午後9時。香港島への夜襲敵前上陸作戦が開始
された。兵士たちは、歩兵銃と鉄兜に60キロの装備を
身につけ、同士討ちを避けるため背に白布を縫い付けて
いた。黒い海面に、探照灯から放たれた光の筋が十数本走って
いた。英軍は異変を察知し、日本軍の上陸用舟艇および
その進路の海面に、要塞砲や機銃の猛攻撃を仕掛けてきた。
 これに呼応して、陸軍の重砲・野砲、海軍の砲艦
「嵯峨・宇治・橋立」からの艦砲射撃が一斉に開始
された。敵味方入り乱れての砲撃戦は、百雷天に
轟き、地球が真っ二つに割れるようなすさまじさで
あったという。金属が溶けたような色の、炎の弾道は、
暗い夜空をオレンジ色に染めた。上陸用舟艇は
要塞砲に狙い撃ちされ、前後左右に木の葉の如く揺れた。
60キロの装備を身に付けている為、海に落ちれば
二度と浮かぶ事はない。誰もが夢中で舟にしがみついていた。
 上陸後は各隊とも、一進一退の大乱戦となった。
戦車やトーチカからの機銃掃射で落命する者、断崖を
転がり落ちる者など、連日雨降る香港島に、日英
兵士の死体が累々と横たわった。南国の暑さと雨によって
死体は黒く膨張し、無残に変わり果てていった。
26日までの日本軍の戦死者は683人。負傷者1412人。
28日、酒井隆中将や新見政一中将ら首脳部が香港総督府に
入城して、香港攻略戦は終了した。
posted by 亀松亭 at 16:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

武士の情け

 1937(昭和12)年8月21日。海軍大臣・永野修身
から、呉鎮守府司令長官・加藤隆義中将に対して、
「1号艦」建設命令が出された。艦の長さ263メートル、
排水量6万9千トン、15万馬力。国家の威信をかけた
この巨大戦艦は、後に「大和」と名づけられ、同型の2号艦
「武蔵」(三菱長崎造船所建造)と共に、太平洋戦争に船出
してゆく事になる。
 とにかく巨大な戦艦だった。日清戦争時の主力艦「松島」
が4千トン、主砲32センチ。日露戦争時の旗艦「三笠」が
1万5千トン、主砲36センチ程である。大和は砲身21
メートルの46センチ3連装9門、15.5センチ副砲
12門を装備した、世界最大級の鋼鉄の要塞だった。
 1941(昭和16)年11月5日。「Z作戦」の実施が
御前会議で決定した。
空母「赤城・加賀・蒼龍・飛龍・瑞鶴・翔鶴」の6隻を
はじめとする連合艦隊30隻が、エトロフ島ヒトカップ湾に
集結し始めた。軍上層部は日米開戦を疑っていなかったが、
外交の舞台裏では戦争回避の方向で親善交渉が続けられ
ていた。
 このような状況下で、1号艦「大和」は、予備運転や
各種銃砲の発射テストを行い、連合艦隊の旗艦となる日に
備えていた。呉市民の間では、誰言うとなく「不沈艦」と
呼ばれていた。
 12月8日、日本はハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲し、
戦艦8隻、航空機180機を爆撃。死傷者2500人
あまりの被害を与えた。また、12月10日のマレー沖
海戦では、イギリスの不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」
を、海軍の一式陸攻と九六陸攻75機によって撃沈した。
いずれも航空機による機動部隊がもたらした戦果だった。
 香港・シンガポール・ジャワ・フィリピン・ニューギニア
など、各方面の勝利に日本国民は熱狂した。
だがその歓呼も、半年程で終息する。1942(昭和17)年
6月5日。ミッドウェー沖海戦において、日本連合艦隊は
空母4隻と艦載機285機が全滅し、多くのエースパイロット
を失った。旗艦・大和の主砲は沈黙したままだった。
 以後日本軍は、太平洋各島で米軍の猛攻の前に、次々と
玉砕(全滅)してゆく。1944(昭和19)年10月24日の
フィリピン沖海戦では、戦艦武蔵が、魚雷11本・直撃弾
10発・至近弾6発をうけて沈没し、連合艦隊もほぼ
壊滅した。
 翌1945(昭和20)年になると、1月に硫黄島、3月に
沖縄で、悲愴なまでの総力戦が展開され、日本軍は体当りに
よる人間爆弾、いわゆる「神風特攻機」や「人間魚雷・回天」
「有人ミサイル・桜花」などによる抵抗を行なった。
 3月20日、大和を旗艦とする第二艦隊に、「燃料は
片道分とする」という内容を含む作戦命令が発令された。
命令伝達者には、草鹿龍之介少将と共に、燃料担当参謀・
小林儀作大佐が同行していた。小林は呉鎮守府に赴き、機関
参謀の今井和夫中佐と面談した。今井は海軍機関学校で、
小林の二期後輩だった。
「今井君。今、帳簿外重油はどれ程あるか?」
と、小林が問うた。
 帳簿外重油。重油タンクの底に残っている、パイプでは
引き出せない油の事である。
「むろん最も重油タンクの多い呉鎮守府の事。帳簿外重油も
相当量持っております。」
今井は当惑しながら答えた。
「その油、大和に搭載しようではないか。確かに生還の
見通しは少ない。しかしながら、片道分の燃料で出撃させた
とあっては、武人の情けにあらず。燃料を満載して、
快く送り出してやろうではないか。」
 小林儀作大佐、一世一代の「裏技」だった。かくして
手押しポンプで集められた「帳簿外重油」が、大和・矢矧・
磯風・浜風・朝霜・霞・冬月・雪風・初霜などの艦艇に
搭載されていった。もしも上司から報告を求められた際
には、「片道分の重油搭載を発令したが、積み過ぎて
余分を吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わないので
そのままにした」という答えを用意していた。
 かくして、公式には片道分の燃料しか積んでいない、
伊藤中将率いる第二艦隊は、4月5日「一億特攻の
さきがけ」として出撃していった。艦隊は
豊後水道から九州陸岸を南下した。4月8日午前8時
23分、北緯31度
22分、東経129度14分の、屋久島西方海上の
第二艦隊を、空母エセックスの艦載機が発見。米第58
機動部隊の空母ホーネット、ワスプ、ベニントン、
ヨークタウン、バンカーヒル、ハンコック、イントレピット
、軽空母ガボット、ラングレー、バターン、
インディペンデンスの戦闘機・爆撃機・雷撃機280機が、
3波に分かれて第二艦隊に殺到した。
 午前11時50分、第一波の艦載機が大和上空に出現。
大和は最大戦速27ノットで、右に左に激しく蛇行しながら、
主砲・副砲・高角砲・機銃を撃ちまくって応戦した。
砲煙が大和を襲い、轟音と水柱が激しくあがった。大和
は左舷前部に魚雷1発、後部電探室に直撃弾を食らったが、
数十発の魚雷をかわした。
 午後1時18分、第二波の100機来襲。左舷に
魚雷3本命中。1時44分、第三波126機来襲。
左舷中部に魚雷2本命中。2時12分、左舷中部に魚雷1本、
後部に魚雷1本、爆弾3発命中。そして午後2時17分、
左舷中部深くに魚雷1発命中。船体傾斜20度。
6分後に横転し、大爆発を起こして、不沈艦・大和は遂に
沈没し2704人が戦死した。
 軽巡・矢矧も魚雷7・爆弾2を受け沈没。駆逐艦
「浜風・磯風・朝霜・霞」も沈没した。しかし第二水雷
戦隊司令官の古村少将指揮のもと、中破した冬月・
雪風・涼風は、大和らの生存者を救出して佐世保基地に
生還した。小林の「往復燃料搭載」がもたらした成果で
あろう。無残なばかりの戦争だが、わずかな清風が
吹き抜けることもある。
posted by 亀松亭 at 16:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大救出

 酔いどれ天使。静かなる決闘。野良犬。醜聞。羅生門。
白痴。七人の侍。生き物の記録。どん底。隠し砦の
三悪人。悪い奴ほどよく眠る。用心棒。椿三十郎。
天国と地獄。赤ひげ。
 映画監督・黒沢明は、15作品に俳優・三船敏郎を
使い続けた。野性味、豪胆、反骨。半分ふてくされた
表情で、胴太抜を腰に差し、悪人をぶった斬る素浪人を
演じたなら、右に出る者はないだろう。
 その三船敏郎が主演した映画に、「太平洋奇跡の
作戦キスカ」という、1965(昭和40)年東宝の
作品がある。監督は丸山誠治。特技監督・円谷英二。
この映画は、1943(昭和18)年に実際に行われた
救出作戦を再現した物語であり、三船の「反骨と豪胆」
が十二分に発揮された作品と言える。
 ロシア・カムチャッカ半島と、北米アラスカ半島
とを島々で結ぶアリューシャン列島。日本軍は
1942(昭和17)年6月、ミッドウェー・
アリューシャン作戦においてアッツ島とキスカ島を
占領し、それぞれ2400名と5200名の守備隊を
上陸させた。
 しかしミッドウェー海戦で大敗北を喫した日本軍は
、米軍の反攻によってじりじりと劣勢に陥ってゆく。
翌年5月、トーマス・キンケード中将率いる
1万2千の米軍北太平洋艦隊がアッツ島に上陸。
29日、山崎保代大佐以下2500名の守備隊は
全滅(玉砕)した。
 アッツ島の東方、キスカ島5200名の将兵にも
同様の危機が迫った。米軍
はレーダーで日本艦隊を監視し、90隻近い艦船で
海上を封鎖。アムトチカ島に航空基地を建設し、
空からの哨戒も行いながら、キスカ島上陸に備えていた。
 これに対し日本軍大本営軍令部は、キスカ島守備隊の
救出は困難であるとして、玉砕を提案した。
見殺しにせよというのである。海軍北方軍第五艦隊を
指揮する河瀬四郎中将が「一兵たりとも無駄死に
させてはならぬ」と、軍令部長に食い下がった。
そしてついに、救出作戦の許可を得た。
 とは言え、10数隻の艦隊を率いて警戒厳重な
敵陣に乗り込み、5200名もの人間を救出しよう
というのだから、成功率は極めて低い。救援軍全滅の
確率のほうが高いと予想された。河瀬中将はこの
作戦指揮の為に、海軍兵学校で同期の木村昌福少将を、
南方ラバウルから千島の第一水雷戦隊(一水戦)
司令長官として呼び寄せた。「ヒゲのショーフク」と
あだ名されたこの人物こそ、主役・三船
敏郎の役どころである。
 北緯55度。キスカ島は年中雪と氷に閉ざされた、
長さ40km幅10kmの島である。夏でも氷点下の
事があり、濃い海霧に覆われる事が多い。
「日本古来の霧隠れの忍術でゆく。」
木村少将は今回の「ケ号作戦」の命運を、濃い海霧に
託した。
 7月7日。木村少将は一水戦旗艦「阿武隈」に乗船し
、軽巡「木曽」、駆逐艦「島風・綾波・大波・
五月雨・白雲・薄雲・朝雲・響・若葉・初霜」、
高速油槽船「日本丸」という、快速船13隻を従えて、
千島列島・ほろむしろ幌筵島を出港した。
 7月11日、キスカ島南西500海里まで接近。
しかし霧が晴れてきた。進むか退くかの判断に迫られた。
「引き返す。また来よう。」
木村少将は作戦を中止し、帰港した。
「キスカの目前で引き返すとは、何たる腰抜け。」
第五艦隊の将校たちは、木村少将に罵声を浴びせた。
 木村は1891(明治24)年12月、鳥取生まれで
この時41歳。海兵41期
118名中107番と、成績優秀とはいかなかった。
朝凪や帆風といった小型艦艦長を長く務め、船の事
なら隅から隅まで知り尽くした現場のたたき上げだっ
た。半分ふてくされた表情で部下と将棋を指し、
「精神論だけで戦さに勝てるか、馬鹿どもが」と
風評を受け流しながら、霧を待っていた。
 7月19日、「幌筵からアリューシャンに霧発生。
当分晴れる模様なし」と、気象班から報せが届いた。
22日夕刻、軽巡「多摩」と海防艦「国後」を加え
た一水戦隊16隻が、再び出港した。濃い霧の中、
全艦無灯火での隠密航行である。艦と艦がぶつかる事も
たびたびあった。
 7月25日、米艦隊はキスカ島南西200海里に集結。
レーダーに日本艦隊をとらえ、1千発余の砲弾を射ち込んだ。
ところがこの攻撃は、近くの島を艦隊と見誤っての誤射だった。
この頃一水戦隊は、キスカ島西側を航行中だった。
 この海域は、潮流が速く岩礁だらけの難所だった。
木村少将は曲芸のような操船術で、右に左に船を
蛇行させながら、29日キスカ湾に突入した。守備隊
は救援艦隊を見て泣き崩れたという。
 峯木十一郎陸軍少将以下2400名、秋山勝三
海軍少将以下2800名のキスカ島守備隊は、
12隻の大発(上陸用舟艇)に分乗し、僅か55分で
撤退を完了。8月1日、無事帰還した。
 8月15日。米軍2万9100人、カナダ軍
5300人が軍艦100隻でキスカ島上陸作戦を敢行。
莫大な砲弾を射ち込んだ後に上陸し、彼らが見たものは、
無人の島に日本軍が残していった3匹の犬だけだった。
posted by 亀松亭 at 16:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ほたる

1937(昭和12)年12月5日。樫村寛一3等航空兵曹は
中国・南昌爆撃の途上、壮絶な空中戦に遭遇した。
樫村機は敵機と接触し、左翼三分の二がもぎ取られた。
 しかし樫村は、巧みな操縦で台湾の基地に帰還。この
片翼生還の離れ技の報を知った米内海軍大臣は、「至大至剛、
至玄至妙。先般南昌空襲において片翼を失いたるまま
困難なる飛行を続け、無事基地に帰還したる行為は、
軍人精神の発露として激賞に値するものなり」と、最大級の
賛辞を贈っている。当時のパイロットたちは、プロペラを
手で回してでも生還せよ、という精神を叩き込まれていた。
 時移り、1941(昭和16)年12月8日。日本は
アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアなどに
対して宣戦を布告し、ハワイ真珠湾、マレー半島、
フィリピン、香港、ボルネオ、セレベス、スマトラ島などに
一斉攻撃を開始した。
 日本軍は開戦から半年で、ビルマやインドネシア、
フィリピンから太平洋全域を領有するに至った。日本国民は
大勝利に熱狂した。しかし1942(昭和17)年6月5日の
ミッドウェイ海戦大敗北により、戦局は一変する。
日本連合艦隊は、赤城・加賀・蒼龍・飛龍の空母4隻と、
重巡三隅・最上を失い、艦載機285機と数多くの
エースパイロットを失ったのである。
 続くソロモン諸島沖海戦でも、空母や重巡、航空機171機
を失い、ガダルカナル島、アッツ島、タラワ島、マキン島、
マーシャル諸島などの日本守備隊が次々に玉砕(全滅)して
いった。
 1944(昭和19)年6月6日。連合国軍はヨーロッパ
でのノルマンディ上陸作戦に呼応して、サイパン・グアム・
テニアン占領作戦(マリアナ作戦)を開始した。この戦いで
日本海軍は、空母7・航空機395機を失って壊滅的打撃を
うけ、各島守備隊は玉砕。日本本土はB29の爆撃射程圏内
に入った。
 10月17日。マッカーサー中将率いる米艦隊は、
フィリピン中央部レイテ島上陸作戦に入った。これに対して
日本は、戦艦大和・武蔵などを率いる栗田艦隊をレイテ湾に
突入させる「しょう捷一号作戦」で対抗した。
 10月19日。第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将は
、マニラのマバラカット飛行場の第201海軍航空隊本部に
いた。大西は201空副長の玉井中佐に
対して、次のように言った。
「捷一号作戦勝利の為、零戦に250キロ爆弾を抱かせて
体当りをさせてはどうか。」
 大西は追いつめられていた。圧倒的戦力の米軍に対し、
手持ちの戦力は零戦34、天山3、銀河2、一式陸攻1、
偵察機1しかなかった。勝算など無い。
むろん大西とて「特攻は統率の外道である」事は、十分
承知していた。せめて爆撃機が50機あれば、特攻などと
いう作戦を立てずに済んだのかもしれない。
大西は特攻を提案した時点で、自らの死も覚悟していた。
 豪胆な軍人である大西だが、特攻を口にした時は顔面
蒼白だったという。玉井中佐は即答を避け、第10期
甲種飛行予科練習生(予科練)の搭乗員23名に相談
する。全員賛成した。
「是非もなし。」
 この日この時、関行男大尉を指揮官とする24名の
神風(しんぷう)特別攻撃隊が誕生したのである。
「敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂ふ 山桜花 」
歌にちなんで敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけ
られた特攻隊は、翌年8月15日の終戦までに、2891機
(有人ミサイル・桜花57、母機60を含む)が出撃し、
3724名が戦死した。600名以上の隊員と手を握り
合って出撃を見送った大西中将は、8月16日未明に
自決した。
 海軍は鹿児島県の国分第二、串良、鹿屋に、陸軍は
知覧と万世に特攻基地があった。彼らは、薩摩富士と
呼ばれる開聞岳(922m)を眼下に見て日本に別れ
を告げ、南海上の米艦隊に体当り攻撃を行った。いずれも
20歳前後の見習士官たちだった。
 このうち知覧基地には、「ホタル」の話が語り継がれて
いる。1945(昭和20)年6月5日夜、宮川三郎軍曹は
行きつけの富屋食堂で、明日の出撃を前に
して遺書を書いていた。
「俺、死んだらホタルになってここに戻ってくるよ。」
 宮川は、知覧の特攻隊員たちから「おかあさん」と
慕われていた、富屋食堂の鳥浜とめにそう言った。
とめは1902(明治35)年生まれで、当時43歳。
昭和4年に食堂を開業し、娘と共に特攻隊員の世話を
していた。
 宮川は新潟の長岡工業学校を卒業後、仙台航空機乗員
養成所でパイロットになった男だった。翌6日に出撃し、
南海に命を散らした。その夜9時頃、富屋食堂には、
遺書を書いている特攻隊員が7〜8名いた。彼らの頭上に
一匹のホタルが現れ、天井に止まった。宮川の言葉通り、
彼がホタルになって戻ってきたのだと誰もが思った。
 
「たましひの たとえば秋の ほたるかな 」
芥川龍之介の死に際し、俳人の飯田蛇笏が詠んだ句で
ある。人1人の魂は、
か細げな蛍火の哀切に似ているのかもしれない。終戦時、
太平洋の夜空には、数百万の蛍火が乱舞していたという
幻想がよぎるのである。
posted by 亀松亭 at 16:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

終戦まで

 終戦というと、テレビでよく見かけるパターンとして、
8月6日に広島に投下された原爆のきのこ雲が映され、
次いで15日正午の玉音放送へと続く。
実際、この間に戦争終結に向けた急速な動きがあるの
だが、事の詳細を知る人は少ない。
 6日午後。広島の第二総軍司令部は、呉鎮守府経由で
「いまだかつてない高性能爆弾を使用。全市たちまち
壊滅し、言語を絶する被害をうけた」と、大本営に
向けて原爆投下後の第一報を送った。
 これに対し、大本営参謀本部第一部長・宮崎周一
中将は、「広島に特殊爆弾あり・・いわゆる原子爆弾
ならんも、発表に考慮を要す」として、国民への
公表をためらった。内閣情報局は情報を虚偽で塗り
つぶし、「被害若干」と報じさせた。
 原爆投下の情報は、内閣書記官長・迫水久常から、
侍従武官・蓮沼しげる蕃を通じて昭和天皇にもたらされ
た。天皇は深く憂慮し、侍従長・藤田尚徳に対し、
広島市の状況を詳細に報告するように命じた。
その日の午後には、内大臣・木戸幸一を呼び、
「かくなる上はやむを得ぬ。余の一身はどうなろうとも、
一日も速やかに戦争を終結して、この悲劇を繰り返さ
ないようにしなければならぬ」と、戦争終結の内意を
伝えた。
 8日午後。東郷茂徳外相は、宮中地下室に参内して
天皇に拝謁。
「原爆投下の惨状はあまりにもひどく、もはや
ポツダム宣言受諾よりほかなし」と言上。天皇は
東郷に賛成した。続いて下村情報局総裁が天皇に拝謁。
「いまや日本帝国興亡の秋(とき)に直面いたしました。
玉音放送がとんでもないなどという窮屈なことなど、
いっておられる時ではございません。いたるところ
大号令という声が聞こえております。いまこそ親しく
御聖断を仰ぐべき時だというのが、一億国民の
心情でございます」と、戦争終結への聖断を求めた。
 8日午後5時。モスクワの佐藤ソ連駐日大使は、
クレムリンに呼び出され、対日宣戦布告文を受け
取った。9日午前1時。ソ連軍はソ満国境を突破して
総攻撃を開始。午前4時、外務省ラジオ室と同盟通信は、
モスクワ放送のソ連対日参戦のニュースを傍受した。
 9日午前8時。東郷外相は、小石川丸山町の鈴木
貫太郎首相宅を訪問。その後海軍省の米内光政海相と
会見し、戦争終結の意思を確認した。同じ頃、木戸
内相は、天皇に呼ばれて拝謁し、戦争終結の意思を
鈴木首相へ告げるようにと言われた。
 9日午前11時50分。15坪ほどの宮中地下室に、
鈴木首相・東郷外相・米内海相・阿南陸相・
梅津参謀総長・豊田軍令部総長・平沼枢密院議長と、
陸海軍軍務局長・書記官長らが陪席して、戦争終結の
御前会議が開かれた。息苦しいほどの蒸し暑さだった。
 会議は戦争終結を急ぐ東郷・米内・平沼派と、
本土決戦を主張する梅津・豊田・阿南の陸軍首脳との
間で激しい論戦となった。午後5時半にいったん
休憩をとり、6時半に再開された。
「本土決戦というが、小銃は10人に1人で、
残りは竹槍か鎌。兵数は550万人と勇ましいが、大半は
高齢者か少年兵で、食糧不足の為体力は劣悪で、訓練も
ほとんど行なわれていないのが実情ではないか。伝達用の
紙はほとんどなく、銃も数十発撃つと使用不能になる
ありさま。これでいかにして戦争を継続するのか?」
というのが、東郷・米内ら終結派の主張であった。
梅津ら決戦派は、神国日本の精神論を展開して応戦
したが、実情は度外視された。
 議論も出尽くした10日午前2時20分。改めて
御前会議を開いた昭和天皇裕仁(44歳)は、ポツダム
宣言受諾を決した。いわゆる「聖断」である。
中天に浮かぶ冴えた月を見ながら、阿南陸相はひそかに
自刃を決意したという。
 10日午前6時45分。外務省電信課は、スイスの
加瀬俊一・スゥエーデンの岡本季正両公使に宛てて、
ポツダム宣言受諾の電報を発信。8時15分には
UP電ニュースとして、日本の無条件降伏が全世界に
向けて発信された。中国主要都市や太平洋各地の
連合軍基地では、大祝賀会的ドンチャン騒ぎに沸き
かえった。
 15日未明。B29・250機の本土空襲は、
高崎・熊谷・伊勢崎・秋田・小田原・福島・新潟に
対して、午前4時半まで続けられた。玉音放送を奪おう
とした反乱も鎮圧され、永田町の陸相官邸内の大臣室
では、阿南陸相が切腹して果てた。
「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」が遺言であった。
 午前5時半、日の出。北海道・東北地方は曇りで
涼しく、東京以西は晴れて
蒸し暑かった。正午に、陛下自ら放送せらるるとの
予告放送が、ラジオから全国民に向けて発信された。
posted by 亀松亭 at 16:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

印度象鎮魂歌/(上) 動物処分命令

 1942(昭和17)年4月18日午後12時25分、
帝都・東京に初の空襲警報が出された。不気味に鳴り響く
サイレンの音に重なって、双発の爆撃機1機が高度500
メートルの超低空で、上野動物園上空を中野方面に飛び去っ
ていった。この時の目撃者によると、飛行士はオレンジ色の
マフラーをしていたという。
 動物園は土曜日の昼間ということもあって、1300人の
人出で賑わっていた。人々は動物園警備班の誘導で安全地帯
に退避してけが人などは出なかったが、誰もが不安と驚きの
まなざしで上空を見上げていた。真珠湾攻撃の大勝利で、
アメリカ太平洋艦隊は全滅したはずだった。
 この日、アメリカの空母・ホーネットは、千葉県犬吠埼
東方1100キロの海上にあった。ドゥリットル陸軍中佐が
指揮する16機のノースアメリカン・B25中型爆撃機が、
午前9時から10時にかけてホーネット飛行甲板から飛び
立っていった。東京方面に13機、名古屋・大阪・神戸に
各1機ずつだった。
 B25の航続距離は2170キロ。ホーネットは
日本領海のレーダー網の盲
点をつき、B25が目的地を往復するに足るぎりぎりの
地点に接近したわけである。この決死的作戦の意図は、
これから反撃に転じるアメリカ軍の意気込みを示したもので、
いわば大々的なデモンストレーションであった。
 この日の空襲による被害はほとんどなかったが、
帝都上空を敵機に侵された日本国民の精神的衝撃は
大きかった。ホーネットは作戦終了後、ただちに反転して
真珠湾基地に引き揚げていった。

 福田三郎は上野動物園の園長室で、空襲警報を聞いていた。
彼は沈痛な表情で、机の上の書類を見ていた。表紙には
「動物園非常処置要綱」と書かれてあった。昭和16年
8月11日に制定されたこの要綱には、動物園における
危険動物に対する非常処置がこと細かく記載されてあった。
処置とは即ち、猛獣の銃殺・毒殺の事である。
 猛獣はその危険度によって、第一種の熊・ライオン・象・
虎などの24種類
から、第四種のカナリア・亀などに分類されていた。
そして処置の時期について、「第一期の防空下令・第二期の
空襲の時に処置の準備を完了させ、第三期の空襲による
爆撃火災の危険近接したる時、近接の程度に応じて第一・
第二種動物を順次処置し、更に危険のおよぶ時は第三種動物
も順次処置す」と定められていた。
 福田はこの時、園長代理という立場にいた。園長の
古賀忠道が応召され、そのあとをうけた形だった。
福田は1894(明治27)年9月15日、杉並区高円寺に
生まれた。東京農業大学高等科を卒業し、翌年8月から
上野動物園に勤務していた。以来20年間、飼育係として
動物たちと過ごしてきた。小太りの温和な人柄だった。
 東京が空襲されるなど、ありえない事だった。
だがその、ありえない事が起こったのだ。福田は動物処分の
悪夢を脳裏に描き、慌てて振り払った。その福田の
心配をよそに、日本軍が占領したアジア・太平洋の広大な
地域からは、動物たちが続々と送り届けられてきていた。
入園者数も順調に伸び続け、昭和16年度には314万人に
達した。園内を歩いている限り、戦争前とさして変わらぬ穏
やかな光景だった。
 
 本土空襲という事態に、海軍軍令部は南方作戦を延期した。
真珠湾攻撃で撃ちもらしたアメリカ太平洋艦隊の航空母艦を
沈め、東の守りを万全にしておく必要があったからである。
ここに、ミッドウェイ・アリューシャン攻略作戦が実行に
移された。参加艦船350隻、航空機1000機、兵員約
10万人という空前の大部隊が、ミッドウェイ島海域に
集結した。
 だが日本連合艦隊は、空母4隻、艦載機285機と多くの
エースパイロットなど3500人の戦死者を出し、
大敗北を喫した。これを境に、アメリカ軍は猛反攻に出た。
ガダルカナル島撤退をはじめとして、ポートモレスビー、
アッツ島、タラワ島、マキン島、アドミランティ諸島、
マーシャル諸島、エンチャビ・エニウェトク・メリシン
各島と、太平洋各島で日本軍は次々に玉砕(全滅)し、
日本軍防衛網がじりじりと狭められていった。

 1943(昭和18)年7月1日、東京市が都政に移行した。
それに伴って上野動物園も、「東京都上野恩賜公園動物園」
と名を改めた。東京都の初代官選首長には、大達茂雄が
就任した。彼は昭和14年1月から8月までを、平沼麒一郎
内閣の内務次官。昭和17年3月には、昭南市
(シンガポール)の市長兼陸軍軍司政長官を務めるという
経歴の持ち主だった。上野動物園は実質的に、内務官僚・
大達茂雄の管理下に置かれたと言ってよかった。
 都制誕生の目的は、「皇都の統一および簡素強化と
処務の敏活適実をはかり、戦時行政の運営にわずかの間隙
なからしめ、もって大東亜戦争の目的完遂に寄与
せんとする」とある。要するに、戦争の完遂が全てに
おいて最優先されるということであった。
 福田は前日の6月30日、東京市最後の式典に参列した。
「国防を優先し、戦争遂行に第一の任務を持つ都制移行」
という、陸軍大将・岸本綾夫市長の言葉
が胸を刺した。初空襲以来抱えていた漠然とした不安が、
「猛獣処分」という
具体的な現実になって迫ってきたことを直感したからである。
 大達は都長官就任と同時に、関係者に戦局の劣勢と
東京大空襲が必至である
状況を説いた。軍部が国民に流す情報と、現実の戦況の
間には大きな開きがあった。マスコミを通じて説く事は
出来なかったが、首都防衛体制の強化、建物疎開、
学童疎開を積極的に推進してゆくためには、都庁職員に
危機を訴える必要があった。計画局公園課長・井下清も
その1人である。
 井下は山本計画局長と共に、都長官室に呼ばれた。
大達は2人に、海軍のミッドウェイ大敗やガダルカナル
撤退の事実を話した。
「だが敗れたわけではない。一億国民が一丸となって
この戦争にあたれば、十分に戦える。さる日露の戦いに
おいても、戦前の圧倒的不利をくつがえして大勝利
を手中にしてきた。問題は前線で戦っている者と、
内地の国民の心構えの差だ。そのためにはまず、皇都民たる
我々がその模範とならなくてはならない。防空
演習や各職場での軍事訓練を、より強力に促進することは
必要だろう。万一の空襲に備えて、建物や学童を疎開させる
準備を進めなければならない。」
 大達は井下をじろりと見てから、「それに・・・」
と言った。
「公園緑地課長の井下君だったね。君が管理する
上野動物園の猛獣だがね。処分もやむをえないだろう。
猛獣を処分することによって、国民に警告を促すのだ。
我が国は、皇国の存亡を賭けた戦争をしているのだよ。
私情を捨てて非情に徹す
る事だな。」
 井下の顔から血の気が引いた。彼は温厚で丸顔の、
福田の事を思った。飼育係の菅谷や村沢のことを思った。
誰もが、動物たちに自分の愛情のありったけをそそぎこんで
きた男たちだった。彼らに、猛獣処分の命令が出たことを
伝えなければならなかった。
 福田は電話で井下に呼び出された。
「ついにきたか・・・」
福田は直感した。井下の沈んだ口調が、その事を雄弁に
語っていた。福田は机の引き出しから、一通の書類を
出した。殺さなければならない動物の一覧表だった。
「ホクマンヒグマ1頭・北極熊2頭・マレー熊1頭・
アカ熊1頭・日本熊3頭・ヒグマ1頭・朝鮮クロクマ1頭・
トラ1頭・ヒョウ2頭・黒ヒョウ2頭・コヨ―テ1頭・
シマハイエナ1頭・チーター1頭・ライオン4頭・
満州狼5頭・河馬3頭・アメリカ野牛2頭・クロザル1頭・
ブタオザル1頭・マントヒヒ6頭・象3頭・
ガラガラヘビ1頭・マムシ2頭・ニシキヘビ2頭」
 以上が上野動物園の第一種危険動物である。これに
井の頭恩賜動物園の北極熊1頭と、日本熊2頭を合わせた
総計52頭が、さしあたって殺さなければなら
ない猛獣だった。福田の書類には、動物名と頭数の横に、
硝酸ストリキニーネと青酸カリによる1頭あたりの薬物
致死量が細かく記載されていた。
 福田は都庁へ向かう道すがら、せめて肉食獣以外の動物を
救う事を考えてい
た。疎開という方法があった。名古屋・仙台などの
地方動物園に象などを疎開させるのだ。福田は1頭でも
多くの動物を救う為に、知恵のありったけを絞り出そうと
していた。

 上野動物園には、象が3頭いた。インド象のオス
「ジョン」と、メスの「トンキー」「ワンリー」である。
ジョンは1924(大正13)年10月に購入された。
当時からやや狂暴だったが、都制に移行した7月頃から
暴れ方がひどくなっていた。それはまるで、自らの死期を
予感しての行動だったのかもしれない。
 ジョンは前足を短い鎖で繋がれていた。井下と福田は、
自主的にジョンを殺す事にした。銃殺は付近の住民に不安を
与える事から、毒殺の方法がとられた。
しかしジョンは、毒入りのじゃがいもをより分けて食べた。
やむなく絶食による「餓死」という方法をとらざるを
えなくなった。
 井下は福田に、「一ヶ月以内に毒殺」という大達の
命令を伝えた。覚悟していたとはいえ、無念だった。
「戦争なのだ。」
福田はそう言い聞かせ、涙をこらえながら都庁を後にした。
 上野動物園に戻った福田には、つらい園内巡視が待って
いた。正面ゲートを歩くと程なく、ペンギン池がある。
蒸し暑い夏の午後だったが、ペンギンたちは涼しそうに
泳いでいた。いつもと変わらぬのどかさだった。孔雀舎・
鳩舎・馬舎を過ぎると、その先に猛獣舎があった。
虎・熊・ヒョウなどの猛獣たちは、福田の足音や匂いを
覚えていて、親愛の情をこめてすりよってきた。福田は動
物たちと目が合うと、さっと視線をそらした。
罪悪感でいっぱいだった。
「お前たちが一体何をしたというのだ。」
その理不尽さがやりきれなかった。

 その同じ頃、公園課長の井下は手紙を書いていた。
宛先は北王英一・名古屋東山動物園園長と、朴沢三一・
仙台市動物園園長である。

「拝啓

 はなはだ突然には候とも 極秘にて御内意相うかがいたく
一筆啓上つかまつり候。陳者、時局ますます進歩、
国威宣揚されつつあることはご同慶のいたりに存じあげ候。
しかしその一面には 敵反抗に対する万全の対策を
講ずる必要を生じ、当地の如きはまず第一目標となりえる
ことは想像される
結果、当動物園としては都心部にあることゆえ
猛獣の疎開をすることと相
 決し候。当方に比し、安全なる貴園において収容の
ご希望有り候へば、避難管理の名をもって御引き渡し
いたしたく、結局は寄贈または交換等の取り扱いと
相成るかととも存じますが、これは平和に相成った
後のご協議と存じ候。
 貴方におかれてもご都合有りしこと、かつ現在運輸関係は
なはだ窮屈と相成りしおり候が、もし希望の有り候ば、
折り返し貴意相伺いたく候也。」

 記
1・豹2(オス1・メス1)繁殖可能なるもの
1・黒豹2(オス1・メス1)繁殖可能なるもの 
 以上名古屋へ
1・象1(メス1)約24歳 仙台へ
 「せめてこいつらだけでも・・・」
井下は井下で、理不尽な命令に精一杯抵抗していた。

 
posted by 亀松亭 at 16:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

印度象鎮魂歌/(下) 無念の涙

 東京都の大達長官から猛獣処分命令を受けた福田は、
翌日の朝上野動物園の職員全員を集めた。
「第一種危険動物27頭を、1ヶ月以内に毒殺せよとの
事です。本日閉園後、ただちに実行に移します。
なお秘密を厳守する為に、この事は諸君の家族にも
話さないようにお願いします。」
 福田は戦時猛獣処分の命令を伝えた。誰もが無言だった。
「あの・・・象もですか?」
長い沈黙の後、飼育係の菅谷が訊ねた。
「ジョンはしょうがないでしょう。」
福田が小さな声で答えた。狂暴になっていたジョンの
絶食は、5日目に入っていた。
「しかしトンキーとワンリーは何とか救ってあげたい。
彼らは平和の使者なのだ。草食で性格が優しく、子供たちの
人気者でもある。戦争で殺したくない。」
福田と菅谷は共に、トンキーやワンリーの糞を頭から
かぶった仲だった。
 閉園後、最初の処分が始められた。毒殺には硝酸
ストリキニーネが用いられた。ホンヒグマ1頭・
ニホンツキノワグマ1頭に、ふかしたサツマイモに3グラ
ムの薬を混ぜたものが与えられた。2頭はもがき苦しんだ後、
20分後に息絶えた。翌日はライオン・ヒョウ・
チョウセンクロクマ1頭が、同じように毒殺され
ていった。
 福田は眠れない夜を幾晩も過ごす事になった。食欲も
なかった。疲れ果ててウトウトすると、夢に手にかけた
動物たちが現れてうなされた。他の職員たちも同様だった。
誰もが皆やりきれなかった。

 井下の手紙の回答はすぐに届いた。仙台からは、象を
譲り受けたいとの回答。
名古屋からは市長と相談の上との事だった。名古屋は
曖昧だが、仙台は吉報と言えた。事実8月23日に、
仙台市動物園の石井是順技師が福田を訪問し、象の運搬に
関する具体的な打ち合わせや費用の問題を話し合った。
仙台では、豹のオスも必要という事だった。
 福田は早速、田端駅貨物係の佐藤定吉主任を訪ねた。
象の輸送費用は180円。夕方出発すれば、翌日正午までには
仙台に到着出来るとの事だった。福田
は一筋の光明を見出した思いだった。
 福田はその足で上野警察署へ行き、万全の段取りを整えた
うえで都庁の井下を訪ねた。あとは井下が大達長官の
了解をとりつければ、象の命は助かるまでになった。
 福田は動物園に戻って、井下からの電話を待った。
夕方、電話が鳴った。
「だめだったよ。」
井下が力なく言った。
「仙台で象に何かあったら責任問題になると。
命令を曲げて独断で事を行うと
は何事かと、こっぴどくやられたよ。」
「責任問題・・・」
 福田はそう言って絶句した。やり場のない怒りが湧いた。
無念であった。福田や井下の思いは、戦争や官僚組織という、
人格を持たず融通の効かないシステムの中で押し潰された。
全ての努力は水泡に帰し、わずかな望みも完全に絶たれた
のだった。

 福田は象舎の中に入っていった。飼育係の菅谷吉一郎と
渋谷信吉がジョンを見ていた。
「やせたなあ・・・」
福田がぽつんとつぶやいた。
「がんばるなあ、ジョン・・」
ジョンはむうらめしそうな、哀しげな目を福田に向けた。
「おまえ人間のこと、身勝手なやつらだと恨んでいる
だろうなあ・・・」
 ジョンが長い鼻を左右に振った。
「許してくれよなあ、ジョン。インドのジャングルなら、
あと20年は生きられたのになあ・・・」
ジョンの目は澄んでいた。優しい目で福田を見た。
絶食が始まってから17日目だった。ジョンは骨と皮ばかり
の姿で立っていた。ふっと、ジョンの鼻が高々と
持ち上がった。遠吠えのような声が細く長く象舎に響いた。
「ジョン・・・」
福田・菅谷・渋谷が、ほとんど同時に叫んでいた。
ジョンは鳴き終わると、ド
サッと床に崩れ落ちた。午後6時30分、ジョンは息絶えた。
隣の象舎で、メスのトンキーとワンリーが鳴いていた。
哀しい響きの鳴き声だった。
 トンキーとワンジーは、大達長官による疎開拒否の翌々日、
8月25日から絶食が始まっていた。トンキーは、
1924(大正13)年10月にジョンと共に購入された
メスの象である。よく芸をして見せる、子供たちの人気者
だった。おとなしく優しい性格だった。
 ワンジーは1935(昭和10)年6月、タイ国少年団から
贈られた、日タイ友好の使者だった。日本名を「花子」と
言った。ワンジーは、来日の際20歳。
妹分のランプーンと共にやって来た。6月3日、
大阪商船バタビア丸で神戸港に入港し、ここでランプーンは
大阪動物園へ。ワンジーは翌4日、特別仕立ての大貨車で
上京。午後8時半、汐留駅に到着した。
 出迎えにはタイ国公使プラ・ミトラカム・ラサク
、同令息令嬢はじめ、同公
使館員、東京市の宮川保健局長、井下公園課長、
古賀動物園長、地元の芝少年団員など多数がつめかけた。
 やがてタイ国から付き添ってきた象使いのピラト、
ケンユー、チェンの3人や、駅員、動物園係員の手に
よって10時頃無事引き出し作業を終了した。ホ―ムの
広場でバナナなど数貫のもてなしをうけた後、市内の
静まるのを待って、上野動物園に向かった。
 汐留駅を出て蓬莱橋を渡った時には、午前1時を
過ぎていた。だが見物人の人出は沿道をうめていて、
時ならぬパレード行進となった。新聞写真班のフラッシュが
至るところで光る。沿道の要所要所には、警官が提灯を
持って立っている。昭和通りを片側完全通行止めにして、
ワンジーは行進した。横合いから
うっかり飛び出した円タクは、「ヘッドライトを
光らせるな」と、警官にどやされた。
 ワンジーはこの時代のスーパースターだった。
午前2時40分、何事もなく動物園に到着して、
ただちに新装の象舎に収まった。ここでうけた最初のご馳走
は、畑からとりたてのジャガイモだった。
 この華やかな市民あげての歓迎から7年。ワンジーは
その象舎の中で死を迎えようとしていた。ジョンが死んだ
8月29日には、アメリカ野牛の頭部を金槌で打って殺し
、トンキーとワンリーを残して猛獣処分は終了しようと
していた。
 殺し方は基本的に毒殺なのだが、毒薬を与えた後、
槍で刺殺される動物も多かった。ニホンツキノワグマは、
3日間絶食の後、寝ているところにロープを首に巻きつけ、
数人がかりで引っ張り15分かけて窒息死させた。
ニシキヘビは、首に縄をかけて頭部を切断した。
摘出された心臓は、それから1時間半も動き続けていた。
 遺体は陸軍獣医学校生の手で解剖され、毛皮は保存、
珍獣は剥製、内臓や脳は標本となり、残りの骨肉は
動物園内の慰霊碑前に埋葬された。処分された
動物は、「時局捨身動物」と呼ばれた。
 9月2日、猛獣処分の内容が新聞各社に公表され、
4日には慰霊法要が行われた。井下公園課長は、席上
挨拶を述べた。
「このような非常措置を取らざるを得なかった時局の
苛烈さをよく考えていた
だきたい。」
井下の声は震えていた。
 慰霊祭には、近所の子供たちも多数つめかけた。
「殉難猛獣霊位」と書かれた
小さな白木の位牌の前で手を合わせ、焼香の煙は長々と
絶えることがなかった。
また、福田のもとには全国から、数多くの手紙が寄せられた。
「どうぶつえんのおじさん、けだものころして
かわいそう。ぼくは、いままでどうぶつえんがいちばん
すきだった。トラさん、ライオンさん、シロクマさん
もすきだった。けれどもうぼくのすきなどうぶつえんに
、もうじゅうはいないんだね。さびしいな。」

 「福田さん、何もあなた1人の責任じゃない。
皆苦しんでいる。私も力が足りなかった。」
井下は日毎に痩せていく福田を、事あるごとになぐさめて
いた。福田はいつも、黙ったまま力なく笑うだけだった。
「あいつらの事、私は生涯忘れない。苦しみ抜いた
あいつらの姿を、この目に焼き付けて生涯背負って
いくつもりです。」
福田は何度も何度も、同じ事を言って泣いていた。
 トンキーとワンジーは、空腹に耐えながら生きていた。
法要の日まで、福田
は少しずつそっと餌を与えていた。トンキーは福田や菅谷の
姿を見ると、鼻を高く持ち上げて前足を折った。
トンキー得意の「芸」だった。芸をすれば餌がもらえる
という思いがあったのだろう。トンキーは福田の一挙手
一投足を見続けた。哀願するような目だった。
 9月11日、ワンリーが死んだ。
絶食から17日目だった。トンキーはそれ
より12日あまりも生き続け、9月23日午前2時42分、
餓死した。
「来たる世は 人に生まれよ 秋の風 」
福田は、送られてきた短冊の一首を、何度となく
口にしていた。

 1944(昭和19)年になると、全国の動物園で
猛獣処分が相次いだ。3月に大阪市天王寺動物園で
ライオンなど10種25頭が、京都市動物園ではクマ・
ライオン等13頭が処分された。続いて仙台市動物園、
福岡市記念動物園が、猛獣処分の後閉鎖された。
 名古屋市東山動物園は、立地条件の良さから猛獣飼育が
続けられていたが、
12月13日の名古屋市大空襲の際、ヒョウ2頭、
トラ1頭、クマ2頭、ライオン2頭が銃殺された。
さらに昭和20年2月15日の空襲の際には、動物園
も被弾しヤギュウなどが直撃弾で即死したが、
インドゾウのメス2頭は終戦後まで保持し続けた。
 上野動物園では、象舎に水牛が飼われたほか、
トンキーとワンジーのいた象舎には、人間の棺500個が
保管されることになった。猛獣舎には、そのまま
猛獣の剥製標本が展示された。
 昭和20年3月10日の東京大空襲では、動物園に
直接被害はなかったが、4月13日の空襲では動物園にも
150個の焼夷弾が落下し、象舎はほとんど焼け落ちた。
動物園は相次ぐ空襲などにより、飼料の入手が困難になり
、閉鎖
寸前の状況に追い込まれた。そして8月15日になった。
終戦だった。

 
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インディラ/(上) ネールの娘

 1949(昭和24)年2月27日の東京日日新聞に、
一通の投書が載った。
「妹に象が見せたい。古賀園長さん 早く買ってください」
という見出しがついていた。
「ぼくは どうぶつえんがだいすきです。せんそう前に
とうきょうにすんでいたころ、お父さまにつれられて
よくどうぶつえんにゆきましたが、このあいだ、
がっこうのえんそくでどうぶつえんにいったら、
ぞうやライオンがいなかったのでがっかりしました。
いもうとはことし9つでぼくといっしょにどうぶつえん
にいったときはまだちいさかったので、ぞうやライオンは
おぼえていません。
そしてぞうの「え」をみて、ぞうはうしよりおおきいの?
とおかしなことをいいます。きょうお父さまがぎんこう
からおかえりになって、ゆうかんをみながら
「インドのおじさんがぞうをおくってくれるといっている
のに、古賀えん長さんはお金がなくてこまっている」と
かいてあるが、みんながすこしずつお金をけんやくすれば
きっとかえるだろう、とおっしゃいました。いもうとは
ほんとうのぞうをみたいというのでぼくは早くどうぶつえん
にぞうがくるように、お父さんからいただいたお小づかい
をけんやくしてたくさんのおかねをあつめて、はやく
ぞうをかえるようにしてあげるとよいと思います。」

 投書の主は、横須賀市逗子(現・神奈川県逗子市)
清泉学院小学校三年生の近藤晃一(11歳)で、10円の
小為替が同封されていた。この投書は「動物園に象を」
という声の高まりに拍車をかけた。
 台東区子供議会は、当時日本で一ヶ所だけ象が残っていた
名古屋東山動物園の「エルドー」と「マカニー」を、
なんとか貸して欲しいと依頼した。しかし象の健康状態が
良くないのと、全国の子供たちに不公平になるのを理由に、
願いは実現されなかった。この時東山動物園の北王園長を
訪ねた大畑敏樹・原田尚子の2名は、帰京後今度は国会を
訪れ、松本参議院議長に「ゾウ輸入の請願書」を手渡した。
 一方、朝日新聞社と東京都民生局は「象」のキャンペーン
をおこし、子供たちからインドのネール首相に宛てた、
「象をください」の手紙815通を集めた。
手紙は、来日中のインド人貿易商 H・K・ニヨギを通じて、
ネール首相に手渡される事になった。また「象を見た事の
ない子供たちが描いた象の想像図」という奇妙な絵が、
インド大使館にあたるインド代表部(丸の内・郵船ビル内)に
届けられた。
 当時のインドは、前年インド独立の父・マハトマ・
ガンジーが暗殺され、独立後の混乱と内紛、カシミール
国境紛争などで疲弊し、貧困にあえいでいた。
ネール首相は多忙の極にあった。だが、日本の子供たちの
熱意はネール首相に届いた。7月16日、占領軍総司令部
は通産省に正式な輸入許可を通知した。
上野動物園の、空襲で焼け落ちた象舎に象が戻ってくる
ことになったのである。
 吉報は続いた。読売新聞社と講談社のキャンペーンに
より、タイ国より2歳半になるメスのインド象「ガチャ子」
が送られる事が決まった。8月22日、ガチャ子はバンコク
を出帆し、9月2日神戸港に到着した。

 8月29日、日本郵船所属の「延長丸」がカルカッタを
出港した。ネール首相から日本の子供たちに贈る動物大使
が乗船していた。名前を「インディラ」という。3年前に
マイソール蕃王国のミソレ森林地方で捕らえられて、
材木運びなどに使役されていた、15歳になるメスの
インド象だった。ネール首相の愛娘インディラの名が与え
られた。
 延長丸の船内で、インディラの横にじっと立っている男が
いた。飼育係の菅谷吉一郎だった。菅谷は福田と共に、
猛獣処分の苦渋をなめ、ジョン、ワンジー、トンキーの
最期をすべて看取っていた。インディラを見つめる菅谷の
目には、万感の想いがこもっていた。
 9月4日、上野動物園に「ガチャ子」が到着した。
ガチャ子は公募の結果、日本名「はな子」と名づけられた。
ワンジー(花子)にちなんだものだった。
 9月23日。インディラが東京・芝浦岸壁に到着した。
古賀、福田ら動物園関係者が船上でインディラを出迎えた。
「菅谷君、ご苦労様でした。」
古賀と福田は、菅谷とがっちり握手した。握った手に自然と
力がこもった。
「何とか無事到着しました。途中船酔いで餌を食べなく
なったので心配しましたが。」
「インディラか。子供たちの努力のおかげだな。」
古賀がインディラを見た。
「やさしそうなお嬢さんだな。」
福田が言った。
 真夜中だというのに、子供たちは眠れなかった。
インディラの到着は皆知って
いた。迎えに行こうという相談がまとまった。神田岩本町の
あたりで、インディラ一行の提灯行列に出くわした。
「ああっ、インディラさんだ。」
「わああっ・・大きいなあ・・」
「ばんざぁーい・・・」
子供たちは口々に「ばんざい、ばんざい」と叫びながら、
インディラの行列を出迎えた。
 9月25日午前2時40分、インディラは無事上野動物園
に到着した。この時点で行列は子供たちを含めて数千人に
達していた。午前9時の開門時には、1万人が集まり、
午前11時には4万人を突破した。インディラは、
戦時猛獣処分の暗い記憶を消す平和の使者だった。
 10月1日、上野動物園象舎の前で、インディラの
「象呈式」が開催された。
インド代表部のD・G・ムルハーカ、日本側から吉田茂首相
、安井都知事などをはじめ、4万人近い来園者が参加する
中で行なわれた。吉田首相はインディラにバナナを与える
など、終始ニコニコしていた。普段は「人を食っていた」
人物なのだが。
 この式典で、ネール首相から日本の子供たちに贈られた
メッセージが読みあげられた。
「皆さん。私は皆さんのお望みによって、インドの象を
1頭皆さんにお送りすることを大変嬉しく思います。
この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、そして
聞くところによりますと、体に縁起の良いしるしをすっかり
備えているとの事です。皆さん、この象は私からのでは
なく、インドの子供たちから日本の子供たちへの贈り物で
あるとご承知ください。世界の子供たちは多くの点で
似通っています。ところが大人になると変わりだして、
そして不幸なことには時々喧嘩をしたりします。私たちは
このような大人たちの喧嘩をやめさせなければなりませ
ん。そして私の願いは、インドの子供たちや日本の子供
たちが成長したときには、おのおの自分たちの立派な祖国
の為ばかりではなく、アジアと世界全体の平和と協力の
為にも尽くしてほしいということです。
 ですからこのインディラという名を持った象を、
インドの子供たちからの愛情と好意の使者として考えて
ください。インディラは東京でたったひとりぼっちで、
あるいは少し淋しがって遊び友達を欲しがるかもしれ
ません。もし皆さんがお望みならば、インディラが
これから自分の住処としてゆく新しい国で幸福になる
ように、インディラの為にお友達の象を贈る事も出来ます。
象というのは立派な動物で、インドでは大変可愛がられ、
しかも賢くて辛抱強く、しかも優しいのです。私たちも
皆象の持つこれらの良い性質を身につけるようにして
ゆきたいものです。
終わりに皆さんに私の愛情と好意を送ります。
 1949年9月1日 ニューデリー 
               ジャワハルラル・ネール

 日本政府はインディラのお礼として、カルカッタ動物園に
「大山椒魚2尾」と「小熊2頭」を贈った。台東区子供
議会からは、インド代表部を通じて、ネール首相に
「藤娘」と「娘道成寺」の、2つの日本人形が贈られた。

 インディラとはな子の来園によって、上野動物園関係者に
ようやく明るさと活気が戻ってきた。「動物園復活祭」
「上野象祭り週間」「象歓迎こども大会」「児童動物
仮装行列」「象入京歓迎報告大会」など、相次ぐ行事に
職員たちも多忙だった。ひと目インディラとはな子を
見ようと、連日動物園には長い行列ができた。
「いいですか。インド象のインディラ、はな子は、
おもに木の葉・木の芽・タケ・草・果物などを一日
200キロから300キロも食べるんです。インディラの
大好物はリンゴです。象は大体、人間と同じ60から
70年も生きるんです。
こんなに大きくて力も強いのに、性格はおとなしくて
やさしいんですよ。インディラは15歳ですから、
君たちより少しお姉さんですねえ。」
福田は子供たち相手に、インディラの事を説明して聞かせて
いた。満面笑みをたたえていた。
「おじさん。インディラの体重、何キロあるの?」
「インディラは約1900キロもあるんだよ。君たちの
50人分くらいはあるねえ。はな子はまだ赤ちゃんだから
500キロぐらいかな。」
「それじゃあ、ウンチもすごいんだ。」
「そうだねえ、すごい量だねえ。」
子供たちは大笑いしていた。福田はトンキーの事を思い
出しながらも、心をなごませていた。

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インディラ(下)/アーシャとダヤー

 1950(昭和25)年。古賀園長のもとに、全国の子供
たちから「インディラが見たい」という手紙が寄せられる
ようになった。戦後の荒廃と混乱がどうにかおさまり、
好転のきざしを見せ始めた頃だった。だが依然として人々は
胃袋も心も餓えていた。
 インディラの来日は、数少ない明るい話題のひとつだった。
「インディラは日本の子供たちへの贈り物です。地方へ
巡回させる必要があるでしょう。」
古賀園長は福田や菅谷に、インディラの旅を準備するよう
指示した。インディラ来日に尽力してくれた朝日新聞社を
後援として、「移動動物園」という企画が準備された。
 計画は微に入り細にわたって練りに練られた。安井
東京都知事を名誉会長として、主催地各県知事が名誉会長
として名を連ねた。実行委員長が上野動物園園長・
古賀忠道と朝日新聞社企画室副長・遠山孝。
移動動物園総監督には、元陸軍軍医大佐・走尾一三が
あたることになった。
 技術陣は、上野動物園から福田三郎、菅谷吉一郎、
村松善豊、佐藤保雄、林寿郎、福田信正、東京都公園観光課
・木村四郎がその任についた。動物たちは象のインディラの
他、マントヒヒ1頭、小熊2頭、タヌキ2頭、台湾猿1頭、
孔雀3羽、キバタン1羽、オオバタン1羽、お猿の電車の
運転手・カニクイザルのメス「チャコ」と、ニホンザルの
オス「ハチ」、サバンナモンキー1頭の計13種18点が
選ばれて旅立つ事になった。上野動物園始まって以来の
大企画だった。
 「インディラ軍団」が全国の子供たちに会う旅に出たのは、4月28日から
29日深夜にかけての事だった。田端駅から特別列車に乗り
、翌日最初の訪問地・静岡市に到着した。
「インディラがやってきた!!」
 「インディラ軍団」は、各地で熱狂的歓迎をうけた。
象を見るのが始めてという子供たちが大勢いた。
目の見えない子供たちも、インディラに触れた。
インディラは常に優しい目を子供たちにむけて、おとなしく
対応した。
 5月7日まで静岡に滞在した後、8日から18日までは
山梨県甲府市。19日から26日までを長野県松本市で
過ごした。松本市で、旅の疲れと寒さからインディラが
倒れるという事件もあったが、走尾一三獣医ほかの必死の
治療によって翌日には回復した。
 5月27日から6月4日が長野市。6月5日から15日が
新潟市。16日から24日が山形市。25日から7月6日が
青森市。7月7日から13日が札幌市。16日から22日が
旭川市。27日から8月2日が函館市。8月6日
から12日が秋田市。15日から21日が盛岡市。
24日から30日が仙台市。9月2日から8日が福島市。
11日から15日が宇都宮市。18日から22日
が水戸市。25日から29日が群馬県前橋市。
そして9月30日、無事上野動物園に帰り着いた。5ヶ月
にわたる旅だった。この間、のべ400万人の人々が
インディラのもとを訪れた事になる。
 期間中、どの会場でもネール首相からのメッセージが、
彼の似顔絵と共に大看板で展示された。日本人の心の中に、
ネール首相とインディラの名が刻みつけられた。
 また5ヶ月の間、総監督の走尾一三と菅谷吉一郎の
2人は、1日も休まずテントの中でインディラと寝食を
共にした。インディラに見守られるように、
彼女の鼻先に仮設のベッドを作り、走尾と菅谷は眠った。
 いつだったか、インディラの前で福田が菅谷に動物処分の
話をしたことがある。
「サイパンでは、野戦病院の看護婦が患者に青酸カリを
渡して服毒自殺したのだそうだ。我々のしたことも、
それと同じ事なのだろうねえ。戦争というものは、
いつもそうしたものなのだろうねえ。」
 福田も菅谷も、インディラの中に「あいつら」を重ねて
見ていた。骨と皮だけの姿で、鉄柵にもたれて倒れていた
トンキー、ワンジー。ジョンの最期の遠吠えも、耳の底
深くにこびりついてはなれない。消そうとしても消せない
記憶であり、深い深い傷であった。「あいつら」の死が、
声が、インディラを遠いインドの森林から呼び寄せたに
違いないと、福田も菅谷も思いたかった。
「あいつら」が戦争の象徴なら、インディラは「平和」の
象徴だった。「平和」という言葉が新鮮に輝いていた。

 1957(昭和32)年10月8日。来日したネール・
インド首相は、娘のインディラ・ガンジーと共に上野動物園
を訪れた。
「ホホゥ・・・」
8年ぶりのインディラとの対面に、ネール首相は目を細めた。
「ずいぶん大きくなりましたね。」
ネール首相は古賀園長に話しかけた。
「来たときは1800キロしかなかったのに、ちょうど
倍の3600キロになりました。」
 ネール首相はすなずきながら、手にしたリンゴを
インディラに食べさせた。
「日本の子供たちがどんなに可愛がってくれたかと思うと、
楽しくてたまらない。」
インディラ婦人も、かごいっぱいのバナナをインディラに
与えた。彼らを取り囲んでいた幼稚園児や小学生の間から、
いっせいに拍手が沸き起こった。
 ネール首相は10月14日、羽田発のインド航空特別機で
帰国の途についた。
ネール首相はどこへ行っても大変な人気で、「どんな映画
スターもネールさんにはかなわない」と、案内役の外務省員
が舌をまいた。
 当然の事ながら、帰国に際してはお土産が殺到した。
東京都からは名誉都民の称号と「東京都を開く鍵」。
広島市では「平和を開く鍵第一号」。慶応大学と
早稲田大学からは名誉博士号。東京大学からはインド哲学
関係の書籍。行く先々の府・県知事からは、土地の物産・
工芸品。岸首相は熊の子2頭。北海道知事はリス10匹。
そして8年前の子供たちからは、絵や作文が贈られた。

 インディラはその後も子供たちの人気者として元気に
生き続けたが、1983(昭和58)年8月11日未明、
49歳の天寿をまっとうして息を引き取った。
眠るような静かな死だった。
 インディラの死に際して、古賀忠道・東京動物園協会
理事は、朝日新聞のコメントで次のように述べている。
「ネールさんから、インドと日本、そして世界中の子供たち
が仲良くし、大きくなったら世界平和の為に貢献して欲しい
という願いを込めて贈るというメッセ―ジが添えられていた。
移動動物園でも、現在のパンダ以上のブームを巻き
起こしたものです。平和のシンボルとして、長い間
ご苦労さんでしたと言ってやりたい。」
 インディラの死後、上野動物園には「メナム」
「ジャンボ」「アーシャ」「ダヤー」という4頭の象が
いた。このうちアーシャとダヤーは、インディラ・
ガンジー首相の贈り物である。1984年5月、
中曽根首相がインドを訪問した際、「インディラ」の死が
伝えられた。インディラ首相は、即座に代わりの象の
プレゼントを約束した。「アーシャ」はヒンドゥ後で希望を、
「ダヤー」は「慈悲」を意味する。
 その同じ年の1984年10月31日午前9時18分。
インディラ・ガンジー首相は3人のボディガードに
短機関銃・ピストル8発を撃たれ、4時間後に死亡した。
インドでは「女帝」と呼ばれたインディラ首相だが、
日本では「象のおばさん」として親しまれていた。
アーシャとダヤーが「形見」になった。


 

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原爆/1 マンハッタン計画

─ まことにあなたは、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるの
  ですか。(創世記第18章23節) ─

 1923年、ドイツのライツベルク刑務所で、1人の男が
執筆活動に専念していた。作品の題名は「わが闘争」。
作者はアドルフ・ヒトラー34歳。
ドイツ国家社会主義労働党、すなわち「ナチス」の党首であった。
 わが闘争の内容は、人種的偏見に凝り固まっていた。
アーリア人の中核たるゲルマン民族の優秀性を説き、ユダヤ人を
劣等民族の最たるものときめつけた。ゆえにユダヤ人は、
世界に毒を撒き散らす病原菌のような民族で、滅びて当然だと
説いた。ヒトラーは、翌年12月20日に出所。わが闘争の思想
と共に、国民的英雄としてナチス独裁体制を確立してゆく。
 ヒトラーがナチス党首になった頃、同じドイツの温泉郷・
バーデン・バーデンで、大日本帝国陸軍の若手将校3人が、
軍部政権樹立にむけての「謀議」を練っていた。国内では、
「薩長藩閥」を打破するクーデター。満州問題は武力解決。
この2つを、国の内外で同時に実行しようというのである。
 岡村寧次・小畑敏四郎・永田鉄山の三少佐は、「謀議」の
同士を求めて、ライプチヒに留学中の東条英機少佐を訪ね、
快諾を得る。時代は彼らのシナリオに沿って、2・26事件と
満州事変、泥沼の日中戦争から大東亜戦争へと動き始めようと
していた。
 絶対的独裁権を手中にしたヒトラーは、わが闘争の思想を
忠実に実行して
ゆく。推定600万人と言われる「ユダヤ人大虐殺」である。
また反ナチス
の反乱分子の処刑、精神薄弱者・身体障害者の「安楽死」も、
併せて実行さ
れた。
 一方、ヒトラーに「文化を創造する能力の無い民族」と
評されながら、民族のプライドよりも強大な軍事力を選択した
、おめでたい指導者たちがいた。
大日本帝国陸海軍部首脳たちである。彼らは内閣を意のままに
動かし、国家予算の50パーセントを軍事費にあてさせ、
親英派を排除した。バーデン・バーデンの「謀議」を源流とする、
「統制派」と呼ばれる者たちで、やがて東条英機が中心人物に
なっていった。
 1936(昭和11)年に日独防共協定。翌年には日独伊
三国防共協定を結んだ日本は、アメリカ・イギリスと対立状態に
なった。さらに、7月7日の櫨溝橋事件をきっかけにして、
中国大陸全土に侵略を拡大してゆく。当時、
関東軍参謀長だった東条英機中将は、日中和平の政治運動を
推進している、
関東軍参謀・石原莞爾少将に言った。
「われわれは、あなたを模範として中国大陸を征服し、
勲章をもらい、武人として勇名を謳われようと思っているのに、
なぜあなたはそれを阻止しようとするのか。まさか英雄と
いう名前を、自分だけで独占しようというのではない
でしょうね。」
石原が言い返す。
「敵は中国人ではない。東条・梅津の輩こそ、
日本人の敵である。」
 東条は、日中戦争拡大派の一人として戦争を推進する。
むろんこの戦争の
背景には、中国大陸の膨大な「利権」に群がる、財閥の
バックアップがある。
この結果日本は、対アメリカ・イギリス・オランダ・フランス
などを相手とする、「大東亜戦争(1941年・内閣情報室
命名)」をせざるを得ない状況に自らを追い込んでゆく。
 東条は陸軍大臣から首相となる。「打倒東条」を
力説した石原は予備役になり、故郷・山形で農耕生活に入り
日本の敗北を予言する。
 東条ら軍部は、私利私欲で拡大させた日中戦争・大東亜戦争を、
もっともらしい大義名分にすりかえる名人だった。
「大東亜共栄圏」「アジア民族の解放」などの理想が
それである。もっともらしい美辞麗句を並べて国民を「教育」し
、特定の価値観をすり込み、欲望を刺激して生活の豊かさを
保障し、飼い慣らしてゆくのが、戦争指導者たちの常套手段
である。集団心理を巧みに利用し、情報を操作し、
国民をその気にさせて自殺行為に追い込むという手口である。
 むろんヒトラーも、この手口を実行した。
「大衆は限りなく愚かだ。大衆は女のように感情だけで動く。
青少年も同様だ。彼らには、車とオートバイと美しいスターと、
音楽と流行と競争だけを与えてやればいいのだ。そのため
大衆や青少年には、真に必要なことは何も教えるな。
必要がないバカのようなことだけを教えろ。それで競争させろ。
笑わせろ。ものを考えなくさせろ。真に必要なことは、
大衆と青少年を操る者だけが知っていればいい。このあとは、
国家のためと何千回でも呼びかけて戦わせ、殺し合わせる
のだ。(ヒトラー地獄の法則)」

 日本でもむろん、「お国のため」のプロパガンダが強力に
推進された。
「欲しがりません、勝つまでは。大和魂総動員。一人一人が
御国の柱。一億
一心、銃とる心。黙って働き、笑って納税。私腹肥やすな
、国肥やせ。国策に理屈は抜きだ、実践だ。」

 ナチスドイツは軍事的に強力で、短期間にヨーロッパ全土を
制圧していった。極東にあって、アジア・太平洋全域を勢力圏に
している大日本帝国と手を組んでいる以上、世界征服も有り
得ない事ではないかと思われた。ユダヤ
人科学者たちは、恐怖に震えながらも虐殺された同胞の復讐に
燃えた。
「力ある悪には、より強力な武器で。」
ユダヤ人科学者たちは、ナチスより早く「原爆」を製造し、
ベルリンの
頭上に落とさなければならないという、さし迫った状況に追い
込まれていた。
「汝の敵を愛せよ」というイエス・キリストの言葉ほど、
現実的でない言葉はなかった。
 ユダヤ人は、イエス・キリストのルーツとして聖書に
登場する。アブラハ
ム、モーゼを経て、ダビデ王・ソロモン王のユダヤ王国に至る。
その後、国
は分裂し、ユダヤ人は国を持たぬ民族として全世界に散って
いった。だが、どのような差別と迫害の中にあっても、
民族の誇りと団結力を失う事はなかった。
 ユダヤ人大虐殺という事態に、平和主義者で、十分な良識と
判断力・先見力を備えたユダヤ人・アインシュタインでさえ、
ナチスを見過ごしには出来なかった。1939年8月。
彼は渋々ながらも、アメリカのルーズベルト大統領に「原爆」
に関する手紙を書く事になる。
 ルーズベルトは、原爆の研究・製造予算に、のべ20億ドル
を政府予算からひねり出す。それは、議会も国民も知らない
事だった。当初原爆開発では、ナチスが2年程先行していると
考えられていた。そして1942年に、極秘の原爆製造
プロジェクト「マンハッタン計画(M計画)」がスタートした。
 暗号名「DSM」。マンハッタン計画の名の通り、
本部はニューヨークに置かれ陸軍が統括した。
総指揮者は、レスリー・R・グロープス工兵准将。彼は
早速、科学者の人選にとりかかった。そして選び出された
のが、オッペンハイマーだった。
 ジョン・ロバート・オッペンハイマー。1904年
4月22日、ニューヨ―ク生まれのユダヤ系ドイツ人である。
自然科学が好きだった。仏教やインド哲学を探究し、
「全人類の福祉を科学によって増進させる」のが念願だった。
もし彼が、ナチスドイツによる「ユダヤ人大虐殺」という
事態に遭遇しなければ、良心的な自然科学者としての夢を実現
させていただろう。しかしオッペンハイマーの同胞である、
ドイツ系ユダヤ人16万人のうち14万人が虐殺されていた。
彼の夢や良心を吹き飛ばすに十分な「怒り」だった。
 オッペンハイマーは、1943年1月、原爆研究所で
ある「ロス・アラモス研究所」の所長に任命された。
研究所はニューメキシコ州サンタフェ郊外の、人里離れた
高台にあった。ここに全アメリカの頭脳が結集した。
研究所は7部門で構成されていた。理論物理部(部長/H・A・
ベーテ博士)、実験原子核物理部(部長/R・R・ウィルソン
博士)、化学・治金部(J・W・ケネディ博士・
S・スミス博士)、兵器部(部長/W・S・パーソンズ海軍大佐)、
爆薬部(部長/G・B・キスティアコワスキー博士)、
爆弾物理部(部長/R・F・パシェル博士)、
高級研究部(部長/E・フェルミ博士)。
 オッペンハイマーは、これら7部門の統括責任者だった。
当然の事だが、この研究所で原爆をつくる事に少しでも
疑問を持つ者は除外された。
「爆弾や銃弾で死ぬのも原爆で死ぬのも、死ぬ事に変わり
はない。」
ロスアラモス研究所での、一般的な考え方だった。
 オッペンハイマーは、自らの原爆開発もさることながら、
ナチスの原爆開発の動向も絶えず気にしていた。そしてそれが
可能な科学者は、ハイゼンベルクをおいて他にはいないと
確信していた。オッペンハイマーより3歳年下の天才
理論物理学者は、「不確定性理論による量子力学の新解釈」に
より、1932年にノーベル物理学賞を授与されていた。
 ハイゼンベルクは、ベルリン大学教授の地位にあった。
彼がもしナチスの
原爆製造計画に参加していたならば、射殺するようにという
命令も出されて
いた。だが本人は「ナチスに原爆を渡してなるものか」と
考えていた。彼は「ボケ」た。意図的に研究を遅らせて、
ナチスに抵抗した。ゲッチンゲン大学のワイツゼッカーや
ホウテルマンスらも、志しを同じくした。
ニールス・ボーアやリーゼ・マイトナーは、亡命という手段を
とった。
 原爆開発がもたついている間に、一時は無敵かと思われた
ナチスドイツ軍にも、敗色が目立つようになっていた。
1943年1月31日、ナチスドイツ
軍はスターリングラードでソ連軍に降伏。ナポレオン同様、
ロシアの「冬」には勝てなかった。
 同年7月12日、独ソ両軍200万の兵士、戦車・装甲車
4000輌、戦闘機4000機を動員した戦闘がクルスクで
行われ、ソ連が東部戦線の主導権を握った。9月3日には、
イタリアが無条件降伏。そして翌1944年6月6日。連合軍は
兵員200万人、艦船4400隻、航空機25000機を
投入して、フランスのノルマンディ海岸に上陸。
「史上最大の作戦」と言われる大反攻作戦を行った。
東からはソ連軍が、西からは連合軍が、じわじわとベルリンを
目指して進行を開始したのである。
 1944年9月18日。ニューヨーク郊外のハイドパーク
大統領別荘にて、ルーズベルトとイギリスのチャーチル首相の
秘密会談が開かれ、秘密協定が結ばれたらしい。この頃、
ドイツの原爆開発は無いと確認され、ヨーロッパ戦線の
勝敗のメドが立ってきた事などから、原爆の投下対象が
日本になったと言われている。具体的な投下地点としては、
東京か日本艦隊が集結しているトラック島がよいと考えら
れていた。原爆の組み立ては、ドイツ爆撃の基地となる
イギリスより、太平洋の島の方が安全であるとされた。

 1945年4月12日午後3時35分。第32代アメリカ
大統領・フランクリン・ルーズベルトが、ジョージア州
ウォーム・スプリングスで急死した。
死因はくも膜下出血だが、真因は過労死と言ってよい。
1932年の大統領就任以来12年。世界恐慌と第二次世界
大戦とで、気の休まる間などなかっただろう。
 午後5時25分。大統領急死の知らせが、ホワイトハウスの
副大統領・ハリー・S・トルーマンのもとにもたらされた。
それから2時間もたたないうちに、彼は大統領就任式に
のぞんでいた。アメリカの政治に一瞬の空白も許され
ないほど、世界情勢は重大な局面を迎えようとしていた
のである。
 1945年4月28日、イタリアの独裁者・ムッソリーニは、
民衆義勇軍によって逮捕され処刑。ミラノにおいて、
愛人と共に死体がさらしものにされた。同じ頃、ソ連軍が
ベルリンのヒトラー総統本部に総攻撃をかけていた。
ヒトラーは親衛隊500人に対戦車砲で本営を固めさせ、
愛人のエヴァ・ブラウンと地下室に篭った。
 1945年4月29日、ナチス総統ヒトラーは、こめかみを
ピストルで撃ち抜き自殺。愛人エヴァは毒死した。遺体は
翌朝ソ連軍が検死し、90パーセント本人であるとされた。
5月7日、ナチスドイツは連合軍に無条件降伏
した。5月8日が誕生日のトルーマンにとって、何よりの
プレゼントになった。残る敵は大日本帝国。スターリンは、
ソ連軍がドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦することを、
すでに決めていた。

 太平洋戦線では、アメリカ海兵隊が連戦に次ぐ連戦で、
バラワン、ルバン、ミンダナオ、パナイ、セブ、ネグロス
各島に上陸。日本守備隊は玉砕(全滅)
した。2月19日、約7万5千名のニミッツ軍が硫黄島へ上陸。
栗林忠道中将以下、約2万3千名の日本守備隊が激しく抵抗し、
アメリカ軍は死者6千8百名、戦傷者2万1千名を出した。
しかし3月26日、矢尽き刀折れた日本軍は玉砕。
栗林中将も自決して、激戦に幕がおりた。
 3月26日には、最後の砦とも言うべき沖縄に、18万
3千名のアメリカ軍が上陸。各地で悲壮なまでの死闘が繰り
広げられた。日本兵10万9千名と、沖縄市民10万人が
死亡した。沖縄戦の散発的抵抗は9月頃まで続くが、6月
23日の牛島中将の自決を境に、次第に沈静化していった。
 日本軍はこの時点で、戦艦・航空母艦・戦闘機もほとんど
底を尽き、空襲と艦砲射撃によって都市は焦土と化し、
降伏は時間の問題になっていた。中国大陸などには、
無傷で存在する400万の大軍が残っていたが、船が無ければ
日本本土に転用出来ない。仮に船を出しても、沖縄を
おさえて制海・制空権をアメリカ軍が握っている以上、
魚雷か空爆の的になるだけだろう。本土決戦の一億玉砕か、
無条件降伏か。日本の選ぶべき道は、2つに1つだった。

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原爆/2 B29

 1945年7月17日、ベルリン南西部のポツダム市。
イギリスのチャーチル、ソ連のスターリン、アメリカのトルーマン
三首脳が、旧プロイセン王家の屋敷「ツェツィーリン・
ホーフ」に集まった。これより8月2日まで、終戦後の世界を
いかにするかの会談が開かれていた。ポツダム会談である。
この会談の初日、アメリカ大統領・トルーマンのもとに、
一通の電報が届けられた。
「赤ん坊が生まれた。」
 それは人類史上初めて、核分裂による原子爆弾実験成功を
意味していた。
トルーマンは、随行していた陸軍長官・スティムソン、
陸軍参謀総長・マーシャル、陸軍航空司令官・アーノルドに
実験成功を告げた。
 この時すでにトルーマンは、スティムソンを委員長とする
原子力政策諮問機関「中間委員会」の答申を受けて、
「実行」を決断していた。日本に対する原爆投下は最終段階に
入ったのである。
 7月16日午前5時20分45秒。アメリカ・ニューメキシコ州
アラモード空軍基地内の実験場。高さ230メートルの鉄塔に
吊るされた、直径1・52メートル、長さ3・25メートル、
重さ4・5トンのプルトニウム爆弾が、巨大な火球と閃光に
変容した。爆風と衝撃波が、同心円状に広がってゆく。
そして巨大なきのこ雲
 それは、実験責任者・オッペンハイマーとアメリカの国力が、
心血を注いで作り上げた「赤ん坊」に違いなかった。41歳に
して、オッペンハイマーは「原爆の父」になった。
しかし彼が憎んだ敵「ナチス」は、すでに滅んでいた。
 原爆はただちに、B29の基地があるマリアナ諸島の
テニアン島に向けて旅立っていった。投下目標は、空襲で
被害をうけていない都市「京都・小倉・広島・新潟」の
いずれかだった。ナチスの同盟国・日本への使用もやむをえ
ないというのが、オッペンハイマーの見解だった。
 ポツダム会談は、「東西冷戦」の第一ラウンドだった。
共通の敵・ナチスが無くなれば、チャーチル・トルーマンの
自由主義陣営と、スターリンの社会主義陣営という、
イデオロギー対立の構図だけが残る。後に、日本という共通の
敵を失った中国で、蒋介石軍と毛沢東軍が再度戦う図式にも
同様の事が言える。
「原爆が完成しましたよ。」
 トルーマンの言葉に、スターリンの顔がひきつった。
「ほう・・それは・・・」
原爆という最強の武器を手にしたアメリカ軍にとって、
ソ連の対日参戦はあまり意味を持たなくなる。むしろ日本は
地理的に、極東における社会主義陣営を封じ込める最前線に
位置づけられる。ソ連がでしゃばり過ぎて、「分け前」を
取られ過ぎては困るのだ。
 トルーマン対スターリンの、政治的・軍事的なかけひきの中で、
日本と原爆は重要なカードだった。ソ連国内においても、
原爆の研究を行っていたが、いまだ完成には至っていなかった。
軍事バランスの大きな開きは、国際政治での「発言権」にも
重大な影響をおよぼす。へたをすると、モスクワも危ない。
あせったスターリンは、対日参戦によって極東における発言権
を確保しようと考えたのである。
 トルーマンは、日本に原爆を落とす事による日本国民に
対する心理的ダメージや戦略的効果以上に、ソ連に対する
「威嚇」という政治的効果を重要視していた。戦略的判断の
レベルでは、太平洋戦線の現場責任者であるマッカーサー
陸軍大将、ニミッツ海軍大将、ハルゼー海軍大将をはじめとする
軍部の高級指揮官が、揃って原爆投下に反対していた。
レイヒ統合参謀本部議長もトルーマンに投下の必要性は
無いと勧告し、スティムソン陸軍長官でさえ、非戦闘員の
大量殺傷に悩んだという。
 要するにトルーマンは、「使ってみたかった」のだろう。
相手は、南京大虐殺などをやらかした侵略者、「黄色いサル」の
ジャップなのだから。かくして日本は、原爆の実験場となり、
東西冷戦の「道具」にされる事になった
のである。戦後アメリカが国内向けプロパガンダとして、
同胞兵士の命を救い、終戦を早めたと原爆投下の正当性を
主張している。政治家は嘘がうまい。
 ポツダム会談では、ドイツとベトナムの分断統治を決定した。
まずい事に、インドシナを植民地にしていたフランスの、
ド・ゴール大統領抜きにである。
しかも、朝鮮半島問題は話し合われていない。この中途半端な
会談が、後に朝鮮戦争・ベトナム戦争の火種になろうとは、
この時スターリンもトルーマンも考えていなかった。
とにかく、大日本帝国の降伏が先決問題だった。

 アメリカ軍の超重爆撃機・B29。1942年、
ボーイング社が総力をあげて開発した、日本空襲用の
「超空の要塞(スーパー・フォートレス)」である。全長
30・1メートル、左右43メートル、機体総重量64トンは、
ヨーロッパ戦線に展開中の爆撃機・B17の約2倍。約10トン
の爆弾を搭載して(B17は1トン程度)、高度9千メートル
上空を時速480キロで飛行出来た。
 5600キロメートルという長大な航続距離を生かして、
中国・四川省成都の連合軍基地から、九州を空襲する事が
出来た。B17は、高度7千メートルの零下40〜50度の
極寒の中、酸素マスクを必要とした劣悪な機内環境だったのに
対し、B29は完全に与圧され、上着を脱いで葉巻を楽しむ
事も可能だった。
 B29は、機体の前後左右にプレキシガラス製半球の銃座
5基を構え、12・7ミリ機関砲連装12門、20ミリ機関銃
1門を備えていた。さらに翼内燃料タンクは厚いゴムや牛皮で
守られ、機銃の命中弾でも火を吹かないようになっていた。
ゆえにB29を撃墜するには、機銃の唯一の死角である操縦席
正面を射撃するという、高度な空戦テクニックが必要だった。
 1944(昭和19)年6月15日が、B29爆撃編隊の
初陣だった。成都を発した約80機は、7時間後に攻撃目標の
北九州・八幡地区の軍事施設と軍需工場に対し、高度1万
メートル上空から爆撃した。これに対して日本は、長崎
の大村航空隊の陸軍二式複戦・37ミリ機関砲で迎撃し、
B29・7機を撃墜した。
 しかし、こうした歴戦のパイロット達による「曲芸」的
戦果は稀なものだ
った。11月に初めて関東地方に現れたB29に対し、
神奈川のさんまるふた三〇二航空隊の戦闘機「雷電」は、
1万メートルに追いつく事すら出来なかった。次いで
11月24日の帝都(東京)初空襲に際しては、110機の
B29をただの1機も撃墜出来なかった。B29の
「高々度精密爆撃」は翌年3月まで続けられる
が、効率が悪くB29本来の能力を十分に発揮しているとは
いえなかった。

 1944(昭和19)年6月6日。ヨーロッパ戦線の連合
軍総反攻「ノルマンディー上陸作戦」に呼応して、太平洋
戦線では「マリアナ作戦」が開始された。グアム・サイパン・
テニアン島占領作戦である。アメリカ軍兵力約7万1千名。
日本軍は第四十三師団(師団長・斉藤義次郎中将)の
2万8518名と、中部太平洋方面艦隊(司令官・南雲忠一中将)
の1万5164名の、合計4万3682名であった。
 南雲艦隊は空母3沈没、空母4・戦艦1・重巡洋艦1が
中小破、航空機295機を失い、半身不随の状態に陥った。
アメリカ軍は、戦車150輌・大砲1290門・バズーカ砲
167門の圧倒的火力をもって、サイパン島日本守備隊を
圧迫した。7月6日、南雲中将・斉藤中将が切腹。残りの
守備隊も「万歳突撃」を敢行して玉砕した。
 この時、約4千人の日本人非戦闘員が、島の北端に追いつめ
られた。
マッピ岬付近の断崖から、女性を含む多くの者が投身自殺。
あるいは車座に
なって手榴弾で爆死する集団や、わが子を殺して後追い自殺する
者が絶えなかった。野戦病院では、患者と看護婦・従軍慰安婦
たちが、青酸カリによる服毒自殺をはかった。日本人は皆、
降伏よりも死を選んだ。これら非戦闘員の死者は、8千人から
1万人と言われている。戦死者は4万1244人であった。
 テニアン島も同様だった。松本歩兵第五十連隊
(連隊長・緒方敬志)は、島南端のカロリナス高地に追いつめられて
玉砕。南海の楽園は、次々と地獄へと変貌した。
 アメリカ軍は、占領したサイパン・グアム・テニアン
各島に飛行場を建設し、180機ずつのB29を配備した。
統合司令部をグアム島に置き、第二十航空団として日本本土
空襲を準備した。
 1945年1月20日。グアム島の第二十航空団の司令官に、
「爆撃屋」として知られていたカーティス・ルメイ少将が
着任した。ルメイは、B29の大編隊をいかに有効に日本本土
空襲にあてるかに心血を注いだ。日本本土には十分な夜間
戦闘機が配備されていない事と、高射砲がレーダー管制に切り
替えられていない事を重視。夜間、低空による焼夷弾空襲と
いう戦法を編み出すに至った。ルメイはB29から機関砲を
取り外させ、その重量分焼夷弾の量を増やさせた。
焼夷弾とは要するに、火災を発生させ街の住民を無差別に焼き
殺す事を目的とした爆弾の事である。
 1945(昭和20)年3月10日午前0時08分。
非武装で、1機約5トン
の焼夷弾を積んだB29・334機の大編隊が、帝都・東京を
空襲した。迎撃機なし。対空砲火わずか。地上は火炎地獄と
化した。このM69集合油脂焼夷弾19万発の空襲で、
焼死した者は8万5千人にのぼった。
 以後、横浜・大阪・名古屋・神戸・仙台などの大都市は
もとより、中小都市もまんべんなく空襲をうけた。終戦の
8月15日までに投入されたB29は、のべ1万7千500機。
16万トンの焼夷弾を投下し、死者35万人、負傷者
42万人の被害となった。
 ルメイはこのB29爆撃編隊だけで勝てると信じていた。
なお、蛇足ながらルメイは、戦後日本の航空自衛隊を育成し、
政府から勲一等旭日大綬章を授与されている。戦争とは常に、
大量殺人者を英雄に変えるという理不尽な性格を
備えているらしい。

 1945年5月10日。テニアン島に、前年9月に編成された
秘密部隊、「第509混成群団」が乗り込んできた。陸・海・
空軍の混成プロジェクトチームで、彼らを1人1人監視する
憲兵も同時にテニアン入りした。この群団が使用するB29は、
5月にオマハ空軍基地で特別改良されたもので、航続距離
9千3百50キロの最新型であった。
 しかも搭載されたのは、焼夷弾ではなかった。訓練用特殊
大型爆弾「パンプキン」。長さ3・5メートル、直径1・5
メートル、重量4・5トン。オレンジ色に塗装された、
ぼてっと丸いこの爆弾は、後に長崎型原爆となる「ファットマン
(太った男)」と同型・同重量のものだった。トルペックスという
強化爆薬が詰められ、爆薬量51パーセントで、1トン爆弾の
4・5倍の威力があった。
 パンプキン投下は、7月20日に開始された。高度9千メートル
上空から、ノルデン型爆撃照準機を用いて投下し、爆発地点を
見つけて望遠レンズで写真を撮るという作戦だった。第一
目標は福島県郡山市・福島市・新潟県長岡市・富山県富山市
だった。そのいずれもが、新潟市を想定目標都市にしていた。
 クロード・イーザリー機長の7301号機は、郡山を目指した。
だが曇っていた為投下せず、目標を東京に切り替えた。
午前8時20分、茨城県方面より侵入したイーザリー機は
皇居を目指した。雲量97。曇っていて目視投下が
出来ず、レーダーによる投下を行った。パンプキンは
やや東に逸れ、東京駅東側の呉服橋と八重洲橋の中間あたりに
落下した。3名の死者が出た。
 福島市の軽工業地帯を目標にしたパンプキンは、渡利の
山林に落下。新潟県東蒲原郡鹿瀬町の昭和電工鹿瀬工場を
狙ったものも、目標を逸れて被害無し。福島市の品川製作所を
狙った機は、投下に失敗しパンプキンを海上投棄した。
だがやはり、命中すれば一発でもかなりの被害が出た。
静岡県島田市扇町で死者33名。福井県敦賀市の東洋紡績敦賀
工場で死者33名。山口県宇部市で死者25名。
岐阜県大垣市高砂町で死者12名。滋賀県大津市石山の
東洋レーヨン滋賀工場で死者14名。京都府舞鶴市の海軍工廠
第二水雷工場で、死者97名。福島県いわき市平で死者3名。
愛知県春日井市で死者4名。新潟県長岡市左近町で死者2名。
東京・保谷市柳沢で死者3名などである。
 他にも富山市・神戸市・茨城県日立市・名古屋市・浜松市・
静岡県焼津市・愛媛県宇和島市・三重県四日市市・
愛知県豊田市など、29都市・44目標に対して、のべ50機
から52発が投下された。そのうち2発がパンプキンではない、
本物の原子爆弾だった。
 

posted by 亀松亭 at 10:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原爆/3 エノラ ゲイ

 グアム島の第二十航空団統合司令部に、「京都・広島・新潟・
小倉」4都市の攻撃中止命令が届いたのは、1945(昭和20)年
7月21日の事だった。
「中間委員会」副委員長・ジョージ・L・ハリソンらは、
第一目標「京都」を主張した。翌22日、委員長・
スティムソン陸軍長官は「京都」に強硬に反対。京都にかわって
「長崎」が浮上した。
 スティムソンは京都を旅行した事があり、大変気に入って
いたからだ。貴重な文化財を灰にしたくなかったのだろう。
しかしここで語られるのは、「京都を救った男・スティムソン」
ではない。1人の権力者の「趣味」で、数十万の運命や命が
もてあそばれる事の恐さである。京都は原爆の第一目標として
保留されていたがゆえに、通常の空襲被害からもの逃れられた
街なのである。歴史の皮肉としか言いようがない。
 7月25日。ワシントンの陸軍戦略航空軍司令官・
カール・スパーツに、「原爆投下命令書」が手渡された。
ポツダムにいる陸軍長官・スティムソン、陸軍参謀総長・
マーシャルが承認し、陸軍参謀総長代理・トーマス・T・
ハンディがサインした公文書である。8月3日以降、広島・
小倉・新潟・長崎のうち1つに特殊爆弾を投下するものとし、
この情報発表の権限はトルーマンとスティムソンだけに
限られるとしてあった。マッカーサー将軍とニミッツ提督には、
「情報」として命令書の写しが送付された。
 7月26日。アメリカ大統領・トルーマン、イギリス首相・
チャーチル、中華民国主席・蒋介石の連名で「ポツダム宣言」
が発表された。この中で日本の主権は、北海道・本州・四国・
九州と諸小島に限定されるとし、日本に無条件降伏を勧告した。
受諾か拒否かの判断は、日本国首相・鈴木貫太郎の手腕
にかかっていた。
 鈴木貫太郎・77歳。大正時代の連合艦隊司令長官で、
2・26事件の際に銃弾3発を受け重傷を負った。この年の
4月7日首相に起用され、「和平・終戦」という最後の大仕事に
着手した。ポツダム宣言の中に「国体の護持」、すなわち
「天皇制の存続」が有るか無いかが、最大の焦点だった。
それ以外の条件は、受け入れるより他に道はなかった。
 鈴木首相は「天皇制」に関する回答を連合国側から
引き出すまで、ポツダム宣言を「黙殺」した。連合国にとって
「黙殺」は、「抗戦」を意味していた。
重巡「インディアナポリス」によって運ばれた広島型原爆
「リトルボーイ」がテニアン島に到着したのは、まさにそんな
時だった。
 インディアナポリスは、3月26日から始まった沖縄上陸
作戦に参加していた。船は日本軍の神風特攻機1機の体当たり
攻撃によって中破。ふらふらになりながら、サンフランシスコ
まで帰投した。傷が癒えての初仕事が、「原爆輸送」だった。
 7月26日に無事原爆を陸揚げしたインディアナポリスは、
グアム島に寄った後、フィリピンのレイテ島を目指して航海を
続けていた。7月30日午前0時02分、インディアナポリスは
日本軍伊号五八潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
6本の魚雷は次々に命中し沈没。乗員は4日間海を漂流して
いる間に鮫に襲われ、乗員の5分の4にあたる800名以上の
死者を出した。もし、あと5日早く攻撃されていたら、
リトルボーイは海中に没していた事になる。

 8月3日午前9時。中国・広東の第五航空情報連隊情報室
(室長・芦田大尉)では、アメリカのニューデイリー放送に
聞き入っていた。8月6日、広島に原爆を投下するという
内容だった。放送では原爆が投下された場合の悲惨な状況を
克明に伝え、「30年間草木も生えない焦土と化すだろう」
という内容でしめくくった。
 この予告放送は毎日3回、当日まで続いた。長崎の場合も
同様だった。日本本土の民間人も、サイパンからの放送を
傍受している。当然、大本営情報部
も傍受していただろう。だが「敵の謀略放送」であるとして、
広島・長崎にこれといった対策は成されなかった。
 さらに広島市上空からは、M26爆弾ケースに詰められた
大量のビラが投下された。
「即刻都市より退避せよ。日本国民に告ぐ。このビラに
書いてあることを注意して読みなさい。米国は今や何人も
なしえなかった、きわめて強力な爆薬を発明するに至った。
今回発明された原子爆弾は、ただ1個をもってしても、
優にあの巨大なB29・二千機が1回に搭載しえた爆弾に
匹敵する。この恐るべき事実は、諸君がよく考えなければ
ならない事であり、我らは誓ってこの事が絶対事実である事を
保証するものである。我らは今や、日本本土に対して
この武器を使用し始めた。もし諸君がなお疑いがあるならば、
この原子爆弾が唯一広島に投下された際、いかなる状態を
惹起したか調べて御覧なさい。」
 だが広島市民にとっても「ビラ(単伝)」は、「鬼畜米英」
の謀略にしかすぎなかった。広島市民は、いつもと変わらぬ
日常生活を続けていた。

 8月3日。第二十航空軍司令官のカーチス・ルメイ少将から、
第五〇九混成群団に対して「特別爆撃任務命令書第十三号」が
届けられた。攻撃は8月6日。第一目標・広島。第二目標・
小倉(現・北九州市)・第三目標・長崎。作戦暗号名
「シルバー・プレート(銀の皿)」。作戦には7機のB29が
投入される事になっていた。搭乗員たちはミーティングで
、作戦内容と目標上空の航空写真を頭の中に焼き付けていった。
 8月5日朝。日曜日という事もあってか、第五〇九部隊は
テニアン島のパンプキン野外劇場で「勝利ミサ」を行った。
祭壇中央に十字架、テーブル中央に聖書が開いて置かれた。
彼らにとって、イエス・キリストは軍神だった。
 機体番号82のB29は、午後2時45分に「リトルボーイ」
を前部爆弾倉に収納し、未明の出撃を待つばかりになっていた。
機長のポール・チベッツ大佐は、1人の整備員に紙切れを渡し、
コクピット下部に文字を描くようにと指示した。整備員は
「ENОLA GEY」と描いた。人類史に刻まれる「エノラ・
ゲイ」とは、チベッツ大佐の母親の名であった。
 5日夕方。第二十航空軍のB29・400機と、B24
爆撃機の計635機
の爆撃編隊は、焼夷弾を満載して次々に日本上空へと飛び立って
いった。6日未明、群馬県前橋市に102機、兵庫県西宮市に
261機、愛媛県今治市に66機、山口県宇部市に111機、
瀬戸内海の機雷投下に30機という陣立てだった。
広島市民は再三再四、警戒警報のサイレンに悩まされて防空壕の
中へ入り、蒸し暑い眠れぬ夜を過ごした。
 6日午前0時37分(日本時間に直して記載・以下全て同じ)、
シルバープレ―ト先発機3機が、テニアン北飛行場からそれぞれの
目的地へ飛び立っていった。広島へは、パンプキン爆弾で
皇居を狙った、イーザリー少佐を機長とする
「ストレート・フラッシュ号」。小倉へは、ウィルソン少佐を
機長とする「ディャビット三世号」。長崎へは、テイラー少佐を
機長とする「フルハウス号」。
3機のB29は、エノラ ゲイ号に目標上空の気象を通報する
のが仕事だった。

 8月6日午前1時45分、エノラ ゲイに搭乗員の乗り込みが
完了した。
1時27分、エンジンスタート。3号、4号、1号、2号の順で、
両翼2基ずつの36シリンダー・ライトR3350型ターボ
プロペラエンジンが快調に始動。1時35分、機は離陸の為
ゆっくりと滑走路に向かった。1時45分、広島型原爆
「リトルボーイ」を搭載したB29
「エノラ ゲイ」は、テニアン北飛行場を離陸した。重さ約4トン
の原爆と5500ガロンの燃料、12名の搭乗員とさまざまな
機材の為、機は重かった。2600メートルの滑走路をいっぱいに
使っての離陸になった。
 続いて「91号機・ネセサリー・イービル(必要悪)号」と、
「89号機・グレート・アーティスト号」の随伴機2機も
離陸。3機のB29は、一路日本を目指した。マクォート機長の
ネセサリー・イービル号には、高速度撮影用のカメラが、
チャールズ・スゥイーニー機長のグレート・アーティスト号には、
パラシュート付きの科学観測装置が積まれていた。
いずれも、原爆の効果を正確に記録するのが目的だった。
なおチャールズ・スゥイーニー少佐は、長崎原爆投下機
「ボックス・カー」の機長を務める事になる。
 漆黒の闇。進路北西246。高度2800メートル。
2200馬力4基のエンジン音が、エノラ ゲイの細長い鉄の
胴体内に響く。コクピットの計器類の紫外線灯が、緑色に
妖しく光る。搭乗員はそれぞれの持ち場で、さまざまな
計器類をチェックしていた。
 通信士・リチャード・ネルソン伍長は、IFF(敵味方
識別装置)やマイカービーコン(無線標識)、自動方位測定器を
操作していた。レーダー操縦士・ジェイコブ・ビーザー中尉は、
方位探知機とスペクトル分析器・追跡用レシーバーなどの
「機械」と向き合っていた。彼はナチスをやっつける為、
真珠湾攻撃の翌日(1941年12月8日)に陸軍航空隊に入隊
した男である。12人の搭乗員中ただ1人のユダヤ教徒だった。
「人間」と向き合うのではなく「機械」と向き合う事が、
彼らの「戦争の現場」だった。
 エノラ ゲイ機長・ポール・チベッツ大佐は、1915年
生まれで当時30歳。ヨーロッパ戦線では、B17爆撃機の
パイロットだった。彼のポケットには、12本のカプセルが
入っていた。致死量の青酸である。もし作戦に失敗
して捕虜になった場合、彼らには2通りの選択が出来た。
ピストル自殺か服毒自殺である。日本の軍隊の場合、
「戦陣訓」が徹底的に教育されていた。「生きて虜囚の辱めを
うけず。死して罪禍の汚名を残すことなかれ」として、
捕虜よりは自殺を選択した。しかし人命を重んじるアメリカ軍の
やり方としては、「青酸カプセル」は異例の事だった。
 副機長・ロバート・ルイス大尉は、当時26歳。
爆撃手・トーマス・フィレビー少佐は「無口な爆撃専門家」と
呼ばれ、原爆投下のボタンを押した男である。レーダー技師・
ジョー・スティボリック中尉。航法士(ナビゲーター)・
セオドア・ヴァンカーク中尉。整備員・ドゥゼンバリー軍曹。
機尾銃座射手・ジョージ・キャロン軍曹。モルモン教徒の
電子テスト係・モリス・ジョップリン中尉。彼は放射能に
関する科学知識を持っていた、数少ない男である。
兵器係は海軍のパーソンズ大佐。副機関士兼副射手・
ロバート・シューマード軍曹。
 彼らはいずれも、全米陸軍航空隊から慎重に選び抜かれた
下士官以上の将校たちで、戦闘のプロフェッショナルたちで
ある。年齢は25歳から30歳で、命令を忠実に実行する、
愛国心にあふれた軍人だった。彼らは、祖国の同胞たちを救う
為に、必殺の武器を抱えて飛ぶ「騎兵隊」のような英雄的行動
であると固く信じていた。事実搭乗員たちは、離陸前に映画班や
写真班の照明を浴びた「スター」であり「ヒーロー」だった。
騎兵隊は常に正義であり、インディアンは悪そのものだった。
 軍隊という、命令によって動く組織にあっては、彼らに
自由意志は存在しない。彼らは、命令し判断・決断する者たちの
意志の反映であり、「道具」にすぎない。彼らがいかに信仰心
厚いキリスト教徒・ユダヤ教徒・モルモン教徒で
あったとしても、それらの個性は無視され、エノラ ゲイの
搭乗員として抽象化出来た。
 また命令する者たちは、彼らの純粋な愛国心を巧みに利用する。
仮に彼らの1人が、これから行う行為の恐ろしさに気がついて
反乱を起こしたとしても、代わりの誰かがやる。
自らは冷笑され、軍法会議にかけられてアラスカ送りに
なるのがオチだろう。しょせん彼らは、人格無きシステムの
中での、使い捨ての部品にすぎない。「悪魔に魂を売った男」
と名指しされるのは、彼ら12人の搭乗員などではなく、
一握りの戦争の親玉たちだろう。周囲の反対を押し切って
原爆投下を決断したトルーマン大統領と、スティムソン陸軍長官ら
軍首脳部こそが、ヒトラーとナチスと同じ「虐殺王」と
呼ぶにふさわしいだろう。
 硬質な鉄と機械の胴体の中で、彼らの戦争心理を推察する
手がかりがある。
空戦200回以上、日中戦争と大東亜戦争を、零戦の
パイロットとして終戦
まで戦い抜いた、日本海軍航空隊のエース(撃墜王)・坂井三郎は、
著書「坂井三郎空戦記録(講談社刊)」の中で次のように記している。
彼がパイロットになって間もない昭和13年、日中戦争の
南昌攻撃に際し、飛行場近くで中国人を機銃掃射し、
後に彼らの死体を発見した時の事である。

「私は今までの数回の戦闘で、幾度か敵機を撃った。また敵を
攻撃した。燃えさかる敵愾心で攻撃した。しかしその場合、
いつも攻撃の相手は「敵機」であり「敵兵」であって、そこに
「人間」を意識した事はなかった。今こうして、
私に撃たれて死んでいる「人間」を見ると、麻酔から醒めた
時の痛みのように、心がうずくのである。私は1人で黙々と
そこへ穴を掘り、静かに二個の死体を埋めて黙祷した。」
 この時坂井は22歳。彼は続けて語る。
「私はまだ、戦争に慣れていなかったのだ」と。

posted by 亀松亭 at 10:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原爆/4 広島

─ 一日にして全人類の葬儀は終わる
  永い時の経過に、幸運が生み出した一切
  磨きあげ、卓越せるもの一切  すぐれて美しきもの一切
  偉大な王座も 偉大な国土も 一切が深淵に落ち
  一切が一刻にして滅びゆく ─

  セネカ(紀元5?〜65年・古代ローマの政治家・
  後期ストア派の哲学者・
  悲劇作家。教え子に皇帝ネロがいる)の予言詩


 第二総軍司令部が置かれていた街・広島市。
1940(昭和15)年の、第5回国勢調査における人口は、
34万3千9百68人。ほかに軍人4万人、郡部
からの移動1万人。軍需工場などで強制労働をさせられて
いた朝鮮人労働者が、韓国原爆被害者協会1972年4月
発表の数で約5万人。8月6日朝、広島市には、約45万人
の人々が暮らしていた。
 この中には、満州国(中国東北部)から広島文理科大学や
広島高等師範学校に留学していた中国人留学生数十人、
宣教師や修道女を含む日系アメリカ市民、ドイツ・ロシア・
モンゴル・東南アジア諸国の市民も含まれている。さらに
広島城の大本営には、B24爆撃機「ロンサム・レディ号」
のパイロットなど6名の、アメリカ人捕虜もいた。
彼らは祖国から見捨てられ、原爆の犠牲になった。
 ETA(到着予定時刻)8時15分。なぜ朝だったのかと
いう、素朴な疑問がある。答えはあった。
「日中の時間をなるべく長くして、原爆の効果をきちんと
研究し、写真を撮りたかった」というのである。普通、
こういう行為の事を「実験」と呼ぶ。

 午前3時。エノラ ゲイ機内では、ウラン235などの
最終起爆装置の取りつけにかかっていた。しかしこの時点で、
二重三重の安全装置に守られている「リトルボーイ」は、
まだ目覚めてはいない。直径71センチ、長さ3・5メ―トル
の砲弾型原爆の黒い胴体には、搭乗員たちがクレヨンで落書き
をしていた。「必勝」「武運長久」というオーソドックスな
ものに混じって、「エンペラーを葬れ」というものがあった。
 果たして「リトルボーイ」は本当に爆発するのか、搭乗員
たちは疑問に思っていた。実験に成功したのは長崎型
「ファットマン」であって、リトルボーイは理論的産物に
すぎなかったからだ。つまり彼らは、史上最悪の「人体実験」
を行おうとしていたわけである。
 午前5時05分30秒、日の出。搭乗員たちは晴れがましい
気分で、勝利を確信したという。5時45分、硫黄島上空
通過。ここまでの距離、1160キロメートル。広島まで
あと3時間。ゆっくりと高度を9千メートルまで上げ、
進路を西北西231に変針。四国上空を目指す。硫黄島の
飛行場には、エノラゲイのアクシデントに備えて、
チャールズ・マックナイト大尉を機長とする代替のB29
「トップシークレット」が待機しているという、用意周到さ
だった。
 また、鹿児島県大隈半島東方海上に潜水艦2隻。
薩摩半島南西海上に、海軍
のPBY飛行艇1機と潜水艦1隻がそれぞれ待機。
搭乗員救出用具を積んだ、特別武装のB29「スーパーダンボ」
も上空でスタンバイし、海軍の巡洋艦・駆逐艦と連携しながら、
救助協力体制にも万全を期していた。
 この朝は快晴。抜けるような青空が広がっていた。
7月16日、硫黄島南方海上で発生した台風8号は、
ゆっくりとした速度で西に進み、8月1日に沖縄から上海
東方海上に抜けた。その後北北西に進路を変え、8月3日に
朝鮮半島の北部に上陸した。台風の影響で、西日本一帯は
8月4日まで、雨や曇りのぐずついた天気が続いたが、
5日頃から太平洋高気圧が日本列島をすっぽりと
おおった。6日の朝は全国的によく晴れた、夏の暑い一日が
始まろうとしていた。
 午前6時30分、リトルボーイに「赤プラグ」が挿入された。
投下すれば爆発する状態である。
 午前7時09分、広島県に警戒警報発令。警戒警報は、
天気予報で言えば「注意報」にあたる。広島市民は
「定期便」と呼んでいた。昨夜も2度の空襲警報が出され、
何事もなかった。市民にあまり緊迫感はなかった。この時すで
に、義勇隊や学徒動員、女子勤労奉仕隊などが各所で、
建物の強制疎開作業を始めていた。
 空を見上げると、日ざしはきつかった。
「なして京都と広島だけが無傷なんじゃろのう?」
「きれいな街じゃけん、敵さん、別荘でも建てるつもり
なんじゃろ。」
広島市民は、そんなうわさ話をささやきあっていた。
 警戒警報の主は、イーザリー少佐が機長の気象観測機、
B29「ストレートフラッシュ号」だった。午前7時30分、
エノラ ゲイに入電。
「Y3─Q3─B2─C1」
暗号電文はチベッツ機長が翻訳した。
「広島上空、低中高とも雲量10分の3以下。
第一目標を爆撃せよ。」
 続いてウィルソン少佐の「ジャビット三世号」、
テイラー少佐の「フルハウス号」から入電。
「小倉・下関方面、9千メートル上空まで快晴。」
「長崎上空、わずかに雲あり。されど天候に問題なし。」
チベッツ機長は搭乗員全員に告げた。
「広島だ。」

 午前7時30分、原爆搭載機「エノラ ゲイ」、科学機材
搭載機「グレートアーティスト」、写真撮影機
「ネセサリー イービル」のB29・3機編隊は、
四国上空から広島市西側と南側の高射砲台を避けて、
東側の竹原方面から侵入。
進路を西にとり、広島上空を目指した。
 午前7時31分、広島県の警戒警報は解除された。
人々は防空壕から出て、
やれやれと胸をなでおろした。あわただしい朝の生活が
再開された。職場へと市電に乗り、自転車をこいだ。
茶の間でラジオを聞き、中国新聞を読む人も
いた。配給の米と味噌で朝食の雑炊を流し込み、
「今日も暑くなるな」と、挨拶がわりに言い合っていた。
 午前7時38分、エノラ ゲイは高度9970メートルまで
上昇し、水平飛行に入った。爆撃手のトーマス・フィレビー
少佐は、ノーデン爆撃照準器に神経を集中し始めていた。
 8時09分。編隊の先頭を飛行するエノラ ゲイが、
広島市を視野に入れた。
「間もなくIP(イニシアル・ポイント)に突入。」
IPとは、爆撃投下飛行開始地点の事である。搭乗員
全員に緊張が走った。
爆撃手フィレビーは、EP(エイミング・ポイント)を捜して
照準器を覗いていた。目標地点は「相生橋」。大田川が、
本川と元安川に分流する地点する地点であった。
「全員、対閃光防御用メガネ着用。」
チベッツ機長の指示が飛ぶ。ニューメキシコ州での実験の際、
原爆の閃光は400キロ離れたテキサス州エルパソで目撃され、
轟音は150キロ離れた地点にも響いたという。
 8時15分。フィレビーは照準器の十字中心点に「EP」
をとらえた。同時にパーソンズ大佐が、リトルボーイの
自動時限装置を作動させた。エノラゲイの爆弾倉が開いた。
ネセサリーイービルのカメラが、その様子を映し撮ってゆく。
同じ頃地上では、NHK広島中央放送局の古田アナウンサーが、
警戒警報の原稿を持ってマイクに向かっていた。
 17秒後、リトルボーイは自動的にエノラ ゲイから
切り離され、落下していった。
「午前8時13分、中国軍管区発令。敵大型機3機、西条
上空を西・・・」
NHKのラジオ放送と同時に、広島市内に再び警戒警報の
サイレンがけたたましく鳴り響いた。
 グレートアーティストの爆撃手・カーミット・ビーハンは、
「リトルボーイ」落下を確認すると、パラシュート付きの
爆風測定通信機材3個を投下した。この作戦のコードネームは
「センターボード」。ルイス・アルバレイス、ローレンス・
ジョンストン、ハロルド・アグニューという3人の科学者が
同乗し、計測器の信号をモニターしていた。
 計測器は、高度4300メートルでパラシュートが開いた。
「きれいじゃねぇ。」
「あれ、なんじゃろうか。」
広島市民は、青空の中にキラキラ光る物体を見上げていた。
 ネセサリーイービルは、後に全世界で使用される事に
なる映像を撮影する為に、90度旋回。エノラ ゲイは
4トンの重量を失って、フワッと3メートル上昇。
チベッツ機長は右急旋回して、山陰方向へ急速離脱。
グレートアーティストは機体を60度傾け、右155度に
急降下旋回し、南東方向へ離脱した。
 午前8時15分と言えば、戦後日本の世の中ならば、
NHKの連続テレビドラマの始まる時刻である。
8時15分17秒に高度9600メートルから
投下された「リトルボーイ」は、爆発するまで43秒間落下
し続けた。

 8時16分。この瞬間、広島市民は全てを根底から
断ち切られた。「リトルボーイ」のウラン235は、
「相生橋」から南東に200メートルほどずれた、
広島市細工町十九番地(現・大手町一丁目5─24)島病院
上空580メートル地点で核分裂反応を起こし、
摂氏数百万度と言われる「ファイアーボール」を
生み出した。太陽表面のコロナが、数百万度あると言われて
いる。つまり地球上に、小さな人工太陽が出現したのと同じ
事になる。ファイアーボールからは100分の1秒後に、
大量の放射能が放出され、1秒後に半径310メートル
の球に膨張した。島病院から南東160メートルの
産業奨励館、現在の原爆ドームあたりを中心に、広島
市民球場や大手町一帯をすっぽりと包むほどの大きさである。
 膨張したファイアーボールは、40万度の熱線、大量の
ガンマ線、秒速500メートルの衝撃波を同心円状に放射
して、約10秒間輝いた。この間の地面の温度は、3千から
4千度に達したと考えられている。ファイアーボール内に
いた人間の肉体は、瞬間的に燃え尽き、蒸発した。おそらく
本人は、死んだ事すら気づかなかったに違いない。
この一瞬で蒸発してしまった死者は、推定で2万1千人と
言われている。
 高熱の衝撃波は、産業奨励館屋根の銅板を熔かし、
「死の同心円」を描きながら周辺に広がっていった。
爆心地(グランド・ゼロ)から1500メートル南の山中
高等女学校では、校庭で朝礼が行われていた。生徒の身体は
宙に舞い上がり、地面に叩きつけられた。同時に肌が焼け、
おさげ髪に火がついた。学校の建物は崩壊し、鉄骨が
ねじまがった。50人中12人が即死した。広島市に
地獄が出現した。

 
posted by 亀松亭 at 10:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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