原爆/3 エノラ ゲイ

 グアム島の第二十航空団統合司令部に、「京都・広島・新潟・
小倉」4都市の攻撃中止命令が届いたのは、1945(昭和20)年
7月21日の事だった。
「中間委員会」副委員長・ジョージ・L・ハリソンらは、
第一目標「京都」を主張した。翌22日、委員長・
スティムソン陸軍長官は「京都」に強硬に反対。京都にかわって
「長崎」が浮上した。
 スティムソンは京都を旅行した事があり、大変気に入って
いたからだ。貴重な文化財を灰にしたくなかったのだろう。
しかしここで語られるのは、「京都を救った男・スティムソン」
ではない。1人の権力者の「趣味」で、数十万の運命や命が
もてあそばれる事の恐さである。京都は原爆の第一目標として
保留されていたがゆえに、通常の空襲被害からもの逃れられた
街なのである。歴史の皮肉としか言いようがない。
 7月25日。ワシントンの陸軍戦略航空軍司令官・
カール・スパーツに、「原爆投下命令書」が手渡された。
ポツダムにいる陸軍長官・スティムソン、陸軍参謀総長・
マーシャルが承認し、陸軍参謀総長代理・トーマス・T・
ハンディがサインした公文書である。8月3日以降、広島・
小倉・新潟・長崎のうち1つに特殊爆弾を投下するものとし、
この情報発表の権限はトルーマンとスティムソンだけに
限られるとしてあった。マッカーサー将軍とニミッツ提督には、
「情報」として命令書の写しが送付された。
 7月26日。アメリカ大統領・トルーマン、イギリス首相・
チャーチル、中華民国主席・蒋介石の連名で「ポツダム宣言」
が発表された。この中で日本の主権は、北海道・本州・四国・
九州と諸小島に限定されるとし、日本に無条件降伏を勧告した。
受諾か拒否かの判断は、日本国首相・鈴木貫太郎の手腕
にかかっていた。
 鈴木貫太郎・77歳。大正時代の連合艦隊司令長官で、
2・26事件の際に銃弾3発を受け重傷を負った。この年の
4月7日首相に起用され、「和平・終戦」という最後の大仕事に
着手した。ポツダム宣言の中に「国体の護持」、すなわち
「天皇制の存続」が有るか無いかが、最大の焦点だった。
それ以外の条件は、受け入れるより他に道はなかった。
 鈴木首相は「天皇制」に関する回答を連合国側から
引き出すまで、ポツダム宣言を「黙殺」した。連合国にとって
「黙殺」は、「抗戦」を意味していた。
重巡「インディアナポリス」によって運ばれた広島型原爆
「リトルボーイ」がテニアン島に到着したのは、まさにそんな
時だった。
 インディアナポリスは、3月26日から始まった沖縄上陸
作戦に参加していた。船は日本軍の神風特攻機1機の体当たり
攻撃によって中破。ふらふらになりながら、サンフランシスコ
まで帰投した。傷が癒えての初仕事が、「原爆輸送」だった。
 7月26日に無事原爆を陸揚げしたインディアナポリスは、
グアム島に寄った後、フィリピンのレイテ島を目指して航海を
続けていた。7月30日午前0時02分、インディアナポリスは
日本軍伊号五八潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
6本の魚雷は次々に命中し沈没。乗員は4日間海を漂流して
いる間に鮫に襲われ、乗員の5分の4にあたる800名以上の
死者を出した。もし、あと5日早く攻撃されていたら、
リトルボーイは海中に没していた事になる。

 8月3日午前9時。中国・広東の第五航空情報連隊情報室
(室長・芦田大尉)では、アメリカのニューデイリー放送に
聞き入っていた。8月6日、広島に原爆を投下するという
内容だった。放送では原爆が投下された場合の悲惨な状況を
克明に伝え、「30年間草木も生えない焦土と化すだろう」
という内容でしめくくった。
 この予告放送は毎日3回、当日まで続いた。長崎の場合も
同様だった。日本本土の民間人も、サイパンからの放送を
傍受している。当然、大本営情報部
も傍受していただろう。だが「敵の謀略放送」であるとして、
広島・長崎にこれといった対策は成されなかった。
 さらに広島市上空からは、M26爆弾ケースに詰められた
大量のビラが投下された。
「即刻都市より退避せよ。日本国民に告ぐ。このビラに
書いてあることを注意して読みなさい。米国は今や何人も
なしえなかった、きわめて強力な爆薬を発明するに至った。
今回発明された原子爆弾は、ただ1個をもってしても、
優にあの巨大なB29・二千機が1回に搭載しえた爆弾に
匹敵する。この恐るべき事実は、諸君がよく考えなければ
ならない事であり、我らは誓ってこの事が絶対事実である事を
保証するものである。我らは今や、日本本土に対して
この武器を使用し始めた。もし諸君がなお疑いがあるならば、
この原子爆弾が唯一広島に投下された際、いかなる状態を
惹起したか調べて御覧なさい。」
 だが広島市民にとっても「ビラ(単伝)」は、「鬼畜米英」
の謀略にしかすぎなかった。広島市民は、いつもと変わらぬ
日常生活を続けていた。

 8月3日。第二十航空軍司令官のカーチス・ルメイ少将から、
第五〇九混成群団に対して「特別爆撃任務命令書第十三号」が
届けられた。攻撃は8月6日。第一目標・広島。第二目標・
小倉(現・北九州市)・第三目標・長崎。作戦暗号名
「シルバー・プレート(銀の皿)」。作戦には7機のB29が
投入される事になっていた。搭乗員たちはミーティングで
、作戦内容と目標上空の航空写真を頭の中に焼き付けていった。
 8月5日朝。日曜日という事もあってか、第五〇九部隊は
テニアン島のパンプキン野外劇場で「勝利ミサ」を行った。
祭壇中央に十字架、テーブル中央に聖書が開いて置かれた。
彼らにとって、イエス・キリストは軍神だった。
 機体番号82のB29は、午後2時45分に「リトルボーイ」
を前部爆弾倉に収納し、未明の出撃を待つばかりになっていた。
機長のポール・チベッツ大佐は、1人の整備員に紙切れを渡し、
コクピット下部に文字を描くようにと指示した。整備員は
「ENОLA GEY」と描いた。人類史に刻まれる「エノラ・
ゲイ」とは、チベッツ大佐の母親の名であった。
 5日夕方。第二十航空軍のB29・400機と、B24
爆撃機の計635機
の爆撃編隊は、焼夷弾を満載して次々に日本上空へと飛び立って
いった。6日未明、群馬県前橋市に102機、兵庫県西宮市に
261機、愛媛県今治市に66機、山口県宇部市に111機、
瀬戸内海の機雷投下に30機という陣立てだった。
広島市民は再三再四、警戒警報のサイレンに悩まされて防空壕の
中へ入り、蒸し暑い眠れぬ夜を過ごした。
 6日午前0時37分(日本時間に直して記載・以下全て同じ)、
シルバープレ―ト先発機3機が、テニアン北飛行場からそれぞれの
目的地へ飛び立っていった。広島へは、パンプキン爆弾で
皇居を狙った、イーザリー少佐を機長とする
「ストレート・フラッシュ号」。小倉へは、ウィルソン少佐を
機長とする「ディャビット三世号」。長崎へは、テイラー少佐を
機長とする「フルハウス号」。
3機のB29は、エノラ ゲイ号に目標上空の気象を通報する
のが仕事だった。

 8月6日午前1時45分、エノラ ゲイに搭乗員の乗り込みが
完了した。
1時27分、エンジンスタート。3号、4号、1号、2号の順で、
両翼2基ずつの36シリンダー・ライトR3350型ターボ
プロペラエンジンが快調に始動。1時35分、機は離陸の為
ゆっくりと滑走路に向かった。1時45分、広島型原爆
「リトルボーイ」を搭載したB29
「エノラ ゲイ」は、テニアン北飛行場を離陸した。重さ約4トン
の原爆と5500ガロンの燃料、12名の搭乗員とさまざまな
機材の為、機は重かった。2600メートルの滑走路をいっぱいに
使っての離陸になった。
 続いて「91号機・ネセサリー・イービル(必要悪)号」と、
「89号機・グレート・アーティスト号」の随伴機2機も
離陸。3機のB29は、一路日本を目指した。マクォート機長の
ネセサリー・イービル号には、高速度撮影用のカメラが、
チャールズ・スゥイーニー機長のグレート・アーティスト号には、
パラシュート付きの科学観測装置が積まれていた。
いずれも、原爆の効果を正確に記録するのが目的だった。
なおチャールズ・スゥイーニー少佐は、長崎原爆投下機
「ボックス・カー」の機長を務める事になる。
 漆黒の闇。進路北西246。高度2800メートル。
2200馬力4基のエンジン音が、エノラ ゲイの細長い鉄の
胴体内に響く。コクピットの計器類の紫外線灯が、緑色に
妖しく光る。搭乗員はそれぞれの持ち場で、さまざまな
計器類をチェックしていた。
 通信士・リチャード・ネルソン伍長は、IFF(敵味方
識別装置)やマイカービーコン(無線標識)、自動方位測定器を
操作していた。レーダー操縦士・ジェイコブ・ビーザー中尉は、
方位探知機とスペクトル分析器・追跡用レシーバーなどの
「機械」と向き合っていた。彼はナチスをやっつける為、
真珠湾攻撃の翌日(1941年12月8日)に陸軍航空隊に入隊
した男である。12人の搭乗員中ただ1人のユダヤ教徒だった。
「人間」と向き合うのではなく「機械」と向き合う事が、
彼らの「戦争の現場」だった。
 エノラ ゲイ機長・ポール・チベッツ大佐は、1915年
生まれで当時30歳。ヨーロッパ戦線では、B17爆撃機の
パイロットだった。彼のポケットには、12本のカプセルが
入っていた。致死量の青酸である。もし作戦に失敗
して捕虜になった場合、彼らには2通りの選択が出来た。
ピストル自殺か服毒自殺である。日本の軍隊の場合、
「戦陣訓」が徹底的に教育されていた。「生きて虜囚の辱めを
うけず。死して罪禍の汚名を残すことなかれ」として、
捕虜よりは自殺を選択した。しかし人命を重んじるアメリカ軍の
やり方としては、「青酸カプセル」は異例の事だった。
 副機長・ロバート・ルイス大尉は、当時26歳。
爆撃手・トーマス・フィレビー少佐は「無口な爆撃専門家」と
呼ばれ、原爆投下のボタンを押した男である。レーダー技師・
ジョー・スティボリック中尉。航法士(ナビゲーター)・
セオドア・ヴァンカーク中尉。整備員・ドゥゼンバリー軍曹。
機尾銃座射手・ジョージ・キャロン軍曹。モルモン教徒の
電子テスト係・モリス・ジョップリン中尉。彼は放射能に
関する科学知識を持っていた、数少ない男である。
兵器係は海軍のパーソンズ大佐。副機関士兼副射手・
ロバート・シューマード軍曹。
 彼らはいずれも、全米陸軍航空隊から慎重に選び抜かれた
下士官以上の将校たちで、戦闘のプロフェッショナルたちで
ある。年齢は25歳から30歳で、命令を忠実に実行する、
愛国心にあふれた軍人だった。彼らは、祖国の同胞たちを救う
為に、必殺の武器を抱えて飛ぶ「騎兵隊」のような英雄的行動
であると固く信じていた。事実搭乗員たちは、離陸前に映画班や
写真班の照明を浴びた「スター」であり「ヒーロー」だった。
騎兵隊は常に正義であり、インディアンは悪そのものだった。
 軍隊という、命令によって動く組織にあっては、彼らに
自由意志は存在しない。彼らは、命令し判断・決断する者たちの
意志の反映であり、「道具」にすぎない。彼らがいかに信仰心
厚いキリスト教徒・ユダヤ教徒・モルモン教徒で
あったとしても、それらの個性は無視され、エノラ ゲイの
搭乗員として抽象化出来た。
 また命令する者たちは、彼らの純粋な愛国心を巧みに利用する。
仮に彼らの1人が、これから行う行為の恐ろしさに気がついて
反乱を起こしたとしても、代わりの誰かがやる。
自らは冷笑され、軍法会議にかけられてアラスカ送りに
なるのがオチだろう。しょせん彼らは、人格無きシステムの
中での、使い捨ての部品にすぎない。「悪魔に魂を売った男」
と名指しされるのは、彼ら12人の搭乗員などではなく、
一握りの戦争の親玉たちだろう。周囲の反対を押し切って
原爆投下を決断したトルーマン大統領と、スティムソン陸軍長官ら
軍首脳部こそが、ヒトラーとナチスと同じ「虐殺王」と
呼ぶにふさわしいだろう。
 硬質な鉄と機械の胴体の中で、彼らの戦争心理を推察する
手がかりがある。
空戦200回以上、日中戦争と大東亜戦争を、零戦の
パイロットとして終戦
まで戦い抜いた、日本海軍航空隊のエース(撃墜王)・坂井三郎は、
著書「坂井三郎空戦記録(講談社刊)」の中で次のように記している。
彼がパイロットになって間もない昭和13年、日中戦争の
南昌攻撃に際し、飛行場近くで中国人を機銃掃射し、
後に彼らの死体を発見した時の事である。

「私は今までの数回の戦闘で、幾度か敵機を撃った。また敵を
攻撃した。燃えさかる敵愾心で攻撃した。しかしその場合、
いつも攻撃の相手は「敵機」であり「敵兵」であって、そこに
「人間」を意識した事はなかった。今こうして、
私に撃たれて死んでいる「人間」を見ると、麻酔から醒めた
時の痛みのように、心がうずくのである。私は1人で黙々と
そこへ穴を掘り、静かに二個の死体を埋めて黙祷した。」
 この時坂井は22歳。彼は続けて語る。
「私はまだ、戦争に慣れていなかったのだ」と。

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原爆/4 広島

─ 一日にして全人類の葬儀は終わる
  永い時の経過に、幸運が生み出した一切
  磨きあげ、卓越せるもの一切  すぐれて美しきもの一切
  偉大な王座も 偉大な国土も 一切が深淵に落ち
  一切が一刻にして滅びゆく ─

  セネカ(紀元5?〜65年・古代ローマの政治家・
  後期ストア派の哲学者・
  悲劇作家。教え子に皇帝ネロがいる)の予言詩


 第二総軍司令部が置かれていた街・広島市。
1940(昭和15)年の、第5回国勢調査における人口は、
34万3千9百68人。ほかに軍人4万人、郡部
からの移動1万人。軍需工場などで強制労働をさせられて
いた朝鮮人労働者が、韓国原爆被害者協会1972年4月
発表の数で約5万人。8月6日朝、広島市には、約45万人
の人々が暮らしていた。
 この中には、満州国(中国東北部)から広島文理科大学や
広島高等師範学校に留学していた中国人留学生数十人、
宣教師や修道女を含む日系アメリカ市民、ドイツ・ロシア・
モンゴル・東南アジア諸国の市民も含まれている。さらに
広島城の大本営には、B24爆撃機「ロンサム・レディ号」
のパイロットなど6名の、アメリカ人捕虜もいた。
彼らは祖国から見捨てられ、原爆の犠牲になった。
 ETA(到着予定時刻)8時15分。なぜ朝だったのかと
いう、素朴な疑問がある。答えはあった。
「日中の時間をなるべく長くして、原爆の効果をきちんと
研究し、写真を撮りたかった」というのである。普通、
こういう行為の事を「実験」と呼ぶ。

 午前3時。エノラ ゲイ機内では、ウラン235などの
最終起爆装置の取りつけにかかっていた。しかしこの時点で、
二重三重の安全装置に守られている「リトルボーイ」は、
まだ目覚めてはいない。直径71センチ、長さ3・5メ―トル
の砲弾型原爆の黒い胴体には、搭乗員たちがクレヨンで落書き
をしていた。「必勝」「武運長久」というオーソドックスな
ものに混じって、「エンペラーを葬れ」というものがあった。
 果たして「リトルボーイ」は本当に爆発するのか、搭乗員
たちは疑問に思っていた。実験に成功したのは長崎型
「ファットマン」であって、リトルボーイは理論的産物に
すぎなかったからだ。つまり彼らは、史上最悪の「人体実験」
を行おうとしていたわけである。
 午前5時05分30秒、日の出。搭乗員たちは晴れがましい
気分で、勝利を確信したという。5時45分、硫黄島上空
通過。ここまでの距離、1160キロメートル。広島まで
あと3時間。ゆっくりと高度を9千メートルまで上げ、
進路を西北西231に変針。四国上空を目指す。硫黄島の
飛行場には、エノラゲイのアクシデントに備えて、
チャールズ・マックナイト大尉を機長とする代替のB29
「トップシークレット」が待機しているという、用意周到さ
だった。
 また、鹿児島県大隈半島東方海上に潜水艦2隻。
薩摩半島南西海上に、海軍
のPBY飛行艇1機と潜水艦1隻がそれぞれ待機。
搭乗員救出用具を積んだ、特別武装のB29「スーパーダンボ」
も上空でスタンバイし、海軍の巡洋艦・駆逐艦と連携しながら、
救助協力体制にも万全を期していた。
 この朝は快晴。抜けるような青空が広がっていた。
7月16日、硫黄島南方海上で発生した台風8号は、
ゆっくりとした速度で西に進み、8月1日に沖縄から上海
東方海上に抜けた。その後北北西に進路を変え、8月3日に
朝鮮半島の北部に上陸した。台風の影響で、西日本一帯は
8月4日まで、雨や曇りのぐずついた天気が続いたが、
5日頃から太平洋高気圧が日本列島をすっぽりと
おおった。6日の朝は全国的によく晴れた、夏の暑い一日が
始まろうとしていた。
 午前6時30分、リトルボーイに「赤プラグ」が挿入された。
投下すれば爆発する状態である。
 午前7時09分、広島県に警戒警報発令。警戒警報は、
天気予報で言えば「注意報」にあたる。広島市民は
「定期便」と呼んでいた。昨夜も2度の空襲警報が出され、
何事もなかった。市民にあまり緊迫感はなかった。この時すで
に、義勇隊や学徒動員、女子勤労奉仕隊などが各所で、
建物の強制疎開作業を始めていた。
 空を見上げると、日ざしはきつかった。
「なして京都と広島だけが無傷なんじゃろのう?」
「きれいな街じゃけん、敵さん、別荘でも建てるつもり
なんじゃろ。」
広島市民は、そんなうわさ話をささやきあっていた。
 警戒警報の主は、イーザリー少佐が機長の気象観測機、
B29「ストレートフラッシュ号」だった。午前7時30分、
エノラ ゲイに入電。
「Y3─Q3─B2─C1」
暗号電文はチベッツ機長が翻訳した。
「広島上空、低中高とも雲量10分の3以下。
第一目標を爆撃せよ。」
 続いてウィルソン少佐の「ジャビット三世号」、
テイラー少佐の「フルハウス号」から入電。
「小倉・下関方面、9千メートル上空まで快晴。」
「長崎上空、わずかに雲あり。されど天候に問題なし。」
チベッツ機長は搭乗員全員に告げた。
「広島だ。」

 午前7時30分、原爆搭載機「エノラ ゲイ」、科学機材
搭載機「グレートアーティスト」、写真撮影機
「ネセサリー イービル」のB29・3機編隊は、
四国上空から広島市西側と南側の高射砲台を避けて、
東側の竹原方面から侵入。
進路を西にとり、広島上空を目指した。
 午前7時31分、広島県の警戒警報は解除された。
人々は防空壕から出て、
やれやれと胸をなでおろした。あわただしい朝の生活が
再開された。職場へと市電に乗り、自転車をこいだ。
茶の間でラジオを聞き、中国新聞を読む人も
いた。配給の米と味噌で朝食の雑炊を流し込み、
「今日も暑くなるな」と、挨拶がわりに言い合っていた。
 午前7時38分、エノラ ゲイは高度9970メートルまで
上昇し、水平飛行に入った。爆撃手のトーマス・フィレビー
少佐は、ノーデン爆撃照準器に神経を集中し始めていた。
 8時09分。編隊の先頭を飛行するエノラ ゲイが、
広島市を視野に入れた。
「間もなくIP(イニシアル・ポイント)に突入。」
IPとは、爆撃投下飛行開始地点の事である。搭乗員
全員に緊張が走った。
爆撃手フィレビーは、EP(エイミング・ポイント)を捜して
照準器を覗いていた。目標地点は「相生橋」。大田川が、
本川と元安川に分流する地点する地点であった。
「全員、対閃光防御用メガネ着用。」
チベッツ機長の指示が飛ぶ。ニューメキシコ州での実験の際、
原爆の閃光は400キロ離れたテキサス州エルパソで目撃され、
轟音は150キロ離れた地点にも響いたという。
 8時15分。フィレビーは照準器の十字中心点に「EP」
をとらえた。同時にパーソンズ大佐が、リトルボーイの
自動時限装置を作動させた。エノラゲイの爆弾倉が開いた。
ネセサリーイービルのカメラが、その様子を映し撮ってゆく。
同じ頃地上では、NHK広島中央放送局の古田アナウンサーが、
警戒警報の原稿を持ってマイクに向かっていた。
 17秒後、リトルボーイは自動的にエノラ ゲイから
切り離され、落下していった。
「午前8時13分、中国軍管区発令。敵大型機3機、西条
上空を西・・・」
NHKのラジオ放送と同時に、広島市内に再び警戒警報の
サイレンがけたたましく鳴り響いた。
 グレートアーティストの爆撃手・カーミット・ビーハンは、
「リトルボーイ」落下を確認すると、パラシュート付きの
爆風測定通信機材3個を投下した。この作戦のコードネームは
「センターボード」。ルイス・アルバレイス、ローレンス・
ジョンストン、ハロルド・アグニューという3人の科学者が
同乗し、計測器の信号をモニターしていた。
 計測器は、高度4300メートルでパラシュートが開いた。
「きれいじゃねぇ。」
「あれ、なんじゃろうか。」
広島市民は、青空の中にキラキラ光る物体を見上げていた。
 ネセサリーイービルは、後に全世界で使用される事に
なる映像を撮影する為に、90度旋回。エノラ ゲイは
4トンの重量を失って、フワッと3メートル上昇。
チベッツ機長は右急旋回して、山陰方向へ急速離脱。
グレートアーティストは機体を60度傾け、右155度に
急降下旋回し、南東方向へ離脱した。
 午前8時15分と言えば、戦後日本の世の中ならば、
NHKの連続テレビドラマの始まる時刻である。
8時15分17秒に高度9600メートルから
投下された「リトルボーイ」は、爆発するまで43秒間落下
し続けた。

 8時16分。この瞬間、広島市民は全てを根底から
断ち切られた。「リトルボーイ」のウラン235は、
「相生橋」から南東に200メートルほどずれた、
広島市細工町十九番地(現・大手町一丁目5─24)島病院
上空580メートル地点で核分裂反応を起こし、
摂氏数百万度と言われる「ファイアーボール」を
生み出した。太陽表面のコロナが、数百万度あると言われて
いる。つまり地球上に、小さな人工太陽が出現したのと同じ
事になる。ファイアーボールからは100分の1秒後に、
大量の放射能が放出され、1秒後に半径310メートル
の球に膨張した。島病院から南東160メートルの
産業奨励館、現在の原爆ドームあたりを中心に、広島
市民球場や大手町一帯をすっぽりと包むほどの大きさである。
 膨張したファイアーボールは、40万度の熱線、大量の
ガンマ線、秒速500メートルの衝撃波を同心円状に放射
して、約10秒間輝いた。この間の地面の温度は、3千から
4千度に達したと考えられている。ファイアーボール内に
いた人間の肉体は、瞬間的に燃え尽き、蒸発した。おそらく
本人は、死んだ事すら気づかなかったに違いない。
この一瞬で蒸発してしまった死者は、推定で2万1千人と
言われている。
 高熱の衝撃波は、産業奨励館屋根の銅板を熔かし、
「死の同心円」を描きながら周辺に広がっていった。
爆心地(グランド・ゼロ)から1500メートル南の山中
高等女学校では、校庭で朝礼が行われていた。生徒の身体は
宙に舞い上がり、地面に叩きつけられた。同時に肌が焼け、
おさげ髪に火がついた。学校の建物は崩壊し、鉄骨が
ねじまがった。50人中12人が即死した。広島市に
地獄が出現した。

 
posted by 亀松亭 at 10:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原爆/5 命の水

 広島市は、原爆爆発から10秒で壊滅した。高温高圧の
爆風は、秒速380メートル。1平方メートルあたり最大
12トンの圧力で、同心円を描くように広がっていった。
半径300メートル以内では、人間は一瞬のうちに黒焦げの
「炭」となって、地面に崩れ去った。同時にあらゆる物が燃え、
同じく炭化した。
 また爆風の圧力によって、人間の体は上から圧縮されて、
眼球・舌・内臓などが搾り出されて死亡した。中には、
口から溢れ出した胃や腸を両手で持って歩き、もがき苦しんだ
後に死亡した人もいたと「目撃者」は語っている。
 目撃者? そう、科学的には絶対生存不可能な、死亡率
98・4パーセントの条件下で、78人もの人々が生き残った
のである。日本銀行で18名、富国ビルで16名などである。
そのうち2名は、中町と塚本町の「路上」にいてである。
世界最大の奇跡の1つだろう。その証言によると、爆発直後
は「ピカ(閃光)でもドン(爆発音)でもなく、真の闇より暗くて
深い闇があった」のだと言う。話を聞いただけでも、背筋が
凍りつく思いがする。まるで、人類の業の深さを象徴する
ような闇ではないか。
 爆心から半径700メートル位までは「全裸地帯」と
呼ばれ、肉体の形は残っているものの、衣服はなく、皮膚は
真っ黒に焼けただれて死んでいる人がほとんどだった。
死亡率95パーセント。鉄筋コンクリートのビールはほとんど
全壊。建物の下敷きになった上に、火災で焼かれた圧死体も
数知れない。熱風で皮膚も肉も内臓も焼かれ、ドロドロに
融けた肉体。爆風に吹き飛ばされ、全身こなごなになった
死体。体に大量のガラス片・コンクリート片・鉄筋・木片
などが突き刺さり、床や壁・天井などに叩きつけられて、
首がちぎれ、手足が切断され、胴体がバラバラになった死体。
まさに言語を絶する。
 高温高圧の爆風は、半径5キロ以内の建物をほぼ壊滅させ、
数多くの人々が3度の熱傷を負った。この熱傷の後遺症が
「ケロイド」である。人間の皮膚が20パーセント以上
焼けただれると、生命に危機が訪れる。激烈な痛みと喉の
乾きを訴えながら息絶えた人々の死体が、街の至る所に
あった。
「慈仙寺内で児童が先生を囲んで輪になったまま焼死。
死体は黒焦げで、男女の区別がつかない。」
「炊事場の鍋の中に白骨2体発見。妻と長女のものだと思う。」

「防火用水の中に、年輩の男の人が入っていた。身体は大きく
膨れていた。腕時計が残っていたのでのぞいてみたら、
8時15分を差していた。」
「秋月喫茶店の前に遺体あり。ショックで飛び出したのか
どうか、母体と胎児はヘソの緒でつながっていた。」
「恵子は炊事場でジャガイモをむいていた。そのままで
半分胴体が残っていた。」
「父は神棚を拝む姿勢のまま、半分焼けて死んでいた。」
(NHK広島局・原爆プロジェクトチーム編「広島爆心地・
生と死の40年」より抜粋)
 1人1人の状況を書いていてはキリがない。だが覚えて
おいて欲しい。これら、思わず目をそむけたくなりそうな
悲惨な状況の積み重ねが、何十万人という数字になっている
のだという事を。

 爆心から南に3・5キロ離れた広島地方気象台でも、
衝撃波で壁に窓ガラス
が突き刺さった。このように数多くの人々の肌に、大小無数
のガラス片が突き刺さった。また、ガンマ線1万3千ラド、
中性子線1万4千ラド、という放射線が人々を貫いた。
人々は放射線病に襲われた。歯茎や鼻・毛穴からじわじわ
と血が滲み、髪の毛や眉毛がごそっと抜け落ちた。白血球や
リンパ球が急激に減少した。高熱にうなされ、震えるほど
寒くなり、黒い血を吐いた。苦しんだ後に死が待っていた。
彼らの全身には、紫色の斑点が浮かんでいた。
 人体や建物を粉にした、膨大な量の炭素の塵は、きのこ雲と
なって高度1万4千メートルにまで達した。雲には約200
種類の放射性物質が混在していた。
塵は大気中の水蒸気を集めて、巨大な雨雲に発達。午前9時頃
から約1時間、滝のような雨が爆心地北西部に降り注いだ。
「黒い雨」である。水を求めて喉の乾きを訴えていた人々は、
その雨を飲んだ。30度あった気温が急激に下がり、ぞくぞく
震えるほどの寒さになった。
 一方、原爆投下20分後には、市内の各所で火柱が上がり
始めた。炎が炎を呼び、炎の竜巻となって吹き荒れた。
遺体の上にも、まだ生きている人にも炎は襲いかかった。
その肉体は、青い炎を出して燃えていた。街中の空気は、ドロ
ドロと茶色っぽく淀んでいた。
 誰もが水を求めていた。防火用水の中には、必ず死体が
あった。血の色と混じって、赤黒くドロッとしていた。
大田川・天満川・元安川・本川・京橋川・猿股川。水を求め、
火災を逃れて、人々は川に飛び込んだ。この年の梅雨は長く、
大田川が氾濫するなど川の水量は多かった。水は黒く濁って
いた。
 広島市立第一高女の44名は、元安川に飛び込んだ。
誰もが半死半生の体だった。本来ならこの場所は、桜並木が
美しい所だった。夏は子供たちが水遊びをして歓声を上げて
いた。彼女たちは雷雲と火炎と黒煙で淀んだ空を見ながら、
「天皇陛下万歳」を三唱し、「君が代」を合唱しながら
死んでいった。
 広島二中の生徒・320人も、川の中にいた。最期に
「海ゆかば」を歌い、天皇陛下万歳を唱えながら息絶えて
いったという。
 
 午前11時。中国新聞社社員・松重美人は、爆心地の
南南東2・3キロ地点
に立っていた。「広島師団司令部報道班員」の腕章をして、
カメラを持っていた。
だがあまりの惨状に、シャッターを切る事が出来なかった。
かろうじて歩ける
避難者が、助け合いながら宇品方面を目指していた。
服は着ているが、裸足の者が多かった。松重は迷いを断ち
切り、歯を食いしばってシャッターを切った。
そして避難民や死体、廃墟となった街を撮り続けた。
 その頃、江田島幸の浦船舶練習部の「第十教育隊」に、
救援隊が組織されていた。少年兵1500名のこの部隊は、
陸軍特別攻撃隊、すなわち「神風特攻」の訓練中だった。
また、軍医1名・衛生兵12名・衛生下士官2名・衛生見習
士官1名の16名から成る医療救護班も、広島市内へ向かった。
 広島市内45の病院中、42の病院は壊滅した。3施設と
医師30名・看護婦126名が、かろうじて生き残った。
彼らは当日から、仮設の救護所を設けて負傷者の手当てに
あたったが、ほとんどお手上げの状態だった。軽いやけど
に対して亜鉛華油か亜鉛華軟膏を塗ることぐらいしか
出来なかった。薬品油がなくなると、食用油や機械油で
代用した。外傷用のヨードチンキやマーキュロ
クロムも不足がちという現実だった。
 被爆した負傷者は、安佐・佐伯・賀茂などの郡部へ向かって
避難しようと、必死になって歩いた。途上にある学校・寺・
役場などの施設は、負傷者で溢れた。その場所で力尽き、
足洗い場の泥水を口にしてから死んでいった人々も数知れない。
似島の陸軍病院には、約2万人が押し寄せた。
 午後1時。黒い雨の集中豪雨の後も、雷雲は断続的に発生
して横川一帯が激しい雷雨に見舞われているにもかかわらず、
市内の火災はいよいよ激しく拡大していった。黒煙の柱が
幾筋も立ち昇っていた。救護活動は遅々として進まなかった。
鉄道も電話も使用不能。連絡は徒歩の伝令という有り様だった。
それでも、第二総軍司令部は呉鎮守府経由で大本営に、
「広島市壊滅。未だかつてない高性能爆弾によって、言語を
絶する被害をうけた」と報告した。
 大本営参謀本部第一部長・宮崎周一中将は「いわゆる
原子爆弾ならんも発表に考慮を要す」と、はっきりと広島に
原爆が投下されたという認識を示している。その日の午後、
侍従武官・蓮沼蕃(しげる)を通じて天皇裕仁にも、広島の惨劇
は伝えられた。
 午後6時。気温28度。火災はまだ続いていた。
広島県知事・高野源進は、比治山下の多聞院に県防空司令部を
設置して、内務省や近隣諸県に医療や食糧の緊急援助を依頼
した。広島城の大本営が壊滅した陸軍は、陸軍船舶部(暁部
隊)の佐伯文郎を司令官として、広島市内の警備・遺体処理・
道路の復旧を主とする部隊を組織した。
 海軍は、呉鎮守府を本部とする救護班が出動した。
警察・消防・近隣医師会・婦人会・町村役場・地域義勇隊が、
それぞれ独自に救護班を組織した。軍は道路を確保する為に、
瓦礫と遺体を道の両側に積み上げた。婦人会や地域義勇
隊は、炊き出しを中心にして救護活動を続けた。地獄の
状況下にあって、人々は助け合いながら徹夜で働いた。
 7日になると、山口・浜田・加古川・福知山・岡山の
陸軍病院から医療救護班が到着。警察などと協力して、
トラックなどで負傷者を移送する作業が本格化していった。
彼らは呉海軍病院や、遠く島根や山口の病院へと移送されて
いった。一方遺体は西連兵場などに集められ、重油をかけて
燃やされた。それでも道端に積み残された遺体は、高さ
2メートルの壁を作っていた。こうした救護活動に従事
した人々の多くが、二次被爆者として白血病や癌に侵され、
死んでゆく事になるのである。

 エノラ ゲイは原爆投下後、南方へ離脱。8時16分には、
爆心から約8キロ離れた上空を飛行していた。閃光に続き、
衝撃波が2回あった。機体が細かく軋み、やがて静かになった。
搭乗員たちは緊張感から半ば解放され、重たい
疲労感に襲われた。仕事のない者は、仮眠をとったりキューバ
葉巻「ロミオとジュリエット」をふかしたりしていた。
食事はサンドイッチとパイナップルジュースだった。
 テニアン基地に攻撃成功の知らせが届いたのは、午前
10時半の事だった。湧き上がる歓声と拍手。誰もがお祭り
気分になった。早速、戦勝祝賀会の準備が始まった。
数百個のパイ料理、数千個のホットドック、大量のビールや
レモネードが用意された。掲示板には本日のイベントとして、
オールスター・ソフトボール大会、映画「おやすい御用」の
上映会などが、盛りだくさんに書かれてあった。
 午後2時58分。エノラ ゲイはテニアン北飛行場に無事
帰り着いた。映画班や写真班をはじめ、多数の仲間が搭乗員
たちを迎えに出た。カール・スパーツ将軍がチベッツ大佐に
殊勲十字章を贈った時、興奮はピークに達した。まさに英雄
たちの凱旋だった。鳴り止まぬ歓声をよそに、搭乗員たちは
ただただぐっすり眠りたいと願っていた。彼らが投下した
原爆「リトルボーイ」による直接の死者は、24万人以上と
推定されている。
 トルーマン大統領はその頃、ポツダム会談を終えて巡洋艦
オーガスタ艦上にあった。グラハム大尉がトルーマンに、
原爆投下成功の極秘電報を手渡した。
トルーマンは喜びのあまり、思わずグラハム大尉の手を握って
言った。
「これは歴史の中で、もっとも偉大な出来事だ。」

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原爆/6 長崎市浦上

 8月7日朝。天皇は侍従長・藤田尚徳に、広島の状況を詳細に
報告するよう命じた。その日の夕方陸軍は、広島に参謀本部
第二部長・有末精三中将を団長とする調査団を派遣した。
調査団の中には、この年の6月に原爆研究を中止した、
理化学研究所の仁科芳雄博士も同行していた。一行は飛行機
トラブルにより、8日の夕方、広島入りし、原子爆弾が投下
された事を確信した。
 淵田美津夫海軍中佐。彼は運命の糸に導かれるように、
焦土と化した広島にやって来た。淵田は日米開戦の発端と
なった、ハワイ真珠湾攻撃の航空戦闘隊長だった。
1941(昭和16)年12月7日午前6時(ハワイ時間)、
淵田は空母赤城の一番機に乗り込んで発艦。アメリカ太平洋
艦隊の基地・真珠湾を目指した。
 日本軍艦爆隊や雷撃隊が、アメリカの主力戦艦に800キロ
爆弾を命中させているのを見届けた淵田は、日本軍司令部に
「トラ・トラ・トラ(われ奇襲に成功せり)」と打電した。
軍人としての絶頂期だったのかもしれない。それから4年。
淵田は呆然として広島の廃墟に立っていた。
 「ノーモア・ヒロシマ」と日本人が言えば、「リメンバー・
パールハーバー」とアメリカ人が言い返す。淵田は2つの
言葉の板ばさみになった。戦後、淵田はキリスト教に改宗し、
1952(昭和27)年洗礼を受けた。渡米して全米各地
1千ヶ所あまりを布教して回った。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか
わからずにいるのです。(ルカによる福音書第23章34節)」
が、淵田の座右の銘だった。

 7日・8日と、日本は米軍に対して、何の応答もしなかった。
米軍はB29による焼夷弾爆撃を、淡々と続けた。
内閣情報局は、原爆投下の事実を公表す
る事に強く反対した。作家の大佛次郎は、日記に次のように
書いている。
「8月7日/広島・呉の知人からの電話で、広島に投下された
のが原子爆弾らしいと知る。8日/大本営発表、例の如く
簡略なもので、損害若干である。革命的新兵器の出現だと
いうことは、国民は不明のまま置かれるのである。
9日/その後も新型爆弾に対する昨日と同じ注意。
毛布などをかぶれを繰り返す。国民を愚にした話である。
真偽は知らず、今日は長崎に同じものを投下したというが、
一切発表はない。隠すつもりらしいのである。」
朝日新聞に「原子爆弾」の活字が登場するのは、11日に
なってからだった。
 北九州八幡工業地帯に224機、広島県福山市に151機
のB29が爆撃の為に飛び立った8日夕刻。東郷茂徳外相は
宮中地下室に参内し、天皇に拝謁。
「原爆投下の惨状あまりにもひどく、もはやポツダム宣言
受諾やむなし」と言上した。天皇は東郷に賛同し、
「なるべく早く戦争の終結を見るように取り
運ぶ事を希望す」とのお言葉を述べられた。
 同じ頃、モスクワの日本大使館・佐藤大使のもとに、
ソ連政府の対日宣戦布告文が届いていた。また、テニアン島の
第509混成部隊に対して、第二十航空野戦命令書第17号
が発令された。特殊爆弾による2度目の攻撃。第一目
標・小倉。第二目標は長崎。機体ナンバー7292の
77号機・B29「ボックスカー」は、黄色いエナメル
(尾翼は黒)で塗装されたプルトニウム型原爆・ファットマン
(太った男)を爆弾倉に呑み込み、未明の出撃を待っていた。
 
 9日午前0時。ソビエト軍は対日参戦を決行。満州国境を
越えて、怒涛の進撃を開始した。テニアン島では、
ジョージ・マクォート機長の88号機が小倉へ、
チャーリー・マクナイト機長の95号機が長崎へ、気象観測機
として飛び立とうとしていた。
 午前2時50分。ボックスカーの搭乗員13名の乗り込み
が完了した。機長・チャールズ・スウィーニー少佐、25歳。
5月まで第393爆撃戦隊の隊長だった。エノラ ゲイ右翼
「グレートアーティスト号機長」に続き2度目
の出撃である。副機長・ドン・オルバリー大尉。沈着冷静な
戦闘のプロ。第三操縦士・フレッド・オリビー中尉。
爆撃手は照準器の達人、カーミット・ビーハン大尉。
航空機関士・クハレック特務曹長。ナビゲーター・ジム・
ヴァン・ペルト大尉。尾部銃撃手・パピー・デハート見習曹長。
無線係・スピッツァ軍曹。走査器係・ギャラガー軍曹。
レーダー係・エド・バックリー軍曹。それに追加乗員3名。
原爆投下指揮官・フレデリック・アッシュワーズ海軍中佐、
33歳。助手・バーンズ海軍中佐。放電探知装置担当・
ジェイコブ・ビーザー中尉。
 午前2時56分、ボックスカーは離陸準備を完了し、
4・5トンのファットマンを積み、3時ちょうどに離陸した。
その2分後、フレデリックCボック機長の計測機器搭載機
「グレートアーティスト号」、ホプキンズ機長の写真撮影機
「ビッグスティンク(大騒ぎ)号」が離陸していった。

 広島作戦の時と同様に、硫黄島基地に代替のB29・1機。
九州の大隈半島と薩摩半島沖に、海軍の潜水艦や水上艇、
特別武装のB29「スーパーダンボ」4機が、護衛と救出を
兼ねて待機していた。
 午前4時。外務省ラジオ室と同盟通信は、モスクワ放送の
ソ連対日参戦のニーュースを傍受。この知らせは直ちに、
外相の東郷茂徳と内閣書記官長・迫水久常にもたらされた。
午前8時、東郷と迫水は、小石川丸山町の鈴木貫太郎首相
宅を訪問。終戦の意志を確認した。東郷は次に、海軍省の
米内光政海軍大臣を訪ねた。米内も終戦に異議は唱えなかった。

 午前9時55分。内大臣・木戸幸一が天皇に呼ばれた。
木戸は天皇に、ソ連参戦を知らせた。天皇は終戦を決断し、
その旨を鈴木首相へ伝えるよう、木戸に申し伝えた。
鈴木首相は天皇の意向を木戸から聞くと、拝謁せずに首相官邸
へと向かった。

 ボックスカーは硫黄島上空を通過後、高度を上げながら
西北西に進路をとり、薩南諸島方向へ向かった。この間に、
写真撮影機「ビッグスティンク号」が高度を誤り、
1万2千メートルまで上昇してしまった。この為ボックスカー
は、待ち合わせ場所の屋久島上空で旋回するハメになった。
だがいくら待っても現われない。スゥイーニー機長は2機に
よる作戦決行を決断し、北九州小倉上空を目指した。
 この日は全国的に快晴の天気だったが、前夜の焼夷弾爆撃
による火災の煙で、小倉兵器庫の上空に黒雲が漂い、爆撃
照準機に目標をとらえる事が出来なかった。おまけに日本軍の
高射砲が数発飛んできた。高度は完璧だった。零戦10機も
接近してきた。燃料も不足してきている。アクシデント続きに、
スウィーニー機長は苛立った。もたもたしている場合ではない。
ファットマンを落とさずに帰るわけにもいかない。
 スウィーニー機長は、小倉上空を10分間旋回した後、
再度決断した。
「長崎だ。」
午前10時、ボックスカーは第2目標の長崎へ向かった。
午前10時55分、
長崎上空。爆撃手・カーミット・ビーハン大尉は、第1目標
の三菱重工長崎造船所を求めて、長崎港の海岸線に注意して
いた。だがここでも雲に邪魔された。
 ボックスカーは、長崎上空を旋回しながら飛んでいた。
スウィーニー機長がレーダー爆撃を決断しようとした時、
ビーハン大尉が叫んだ。
「雲の切れ間に第2目標発見。」
即刻、スウィーニー機長の指示が飛ぶ。
「ようし。目視投下用意。全員対閃光用眼鏡着用。」
 第2目標とは、三菱重工長崎兵器製作所の事である。
長崎の市街地から、北に約2キロメートルほど離れた場所に
あった。この「第2目標の第2目標」は、運命のいたずらに
翻弄されながら、爆心地へと変貌してゆく。午前11時01分
20秒。B29「ボックスカー」の爆弾倉から、長さ3・5
メートル、直径1・5メートル、重さ4・5トンの、ボテッと
した形のプルトニウム型原爆「ファットマン」が投下された。
11時02分。目標から北に500〜600メートル
ずれたファットマンは、松山町のテニスコート上空530
メートル付近で核分裂反応を起こし、巨大なファイアーボール
を発生させた。
 長崎市北部の爆心地から半径2キロ以内には、長崎医科大学
、長崎医科大学付属病院、三菱病院浦上分院、浦上第1病院、
浦上天主堂、長崎刑務所浦上支所、城山国民学校、鎮西学院
中等部などの施設があった。広島の時と同様、巨大な
ファイアーボールの出現によって、人間は瞬時にとけ去るか、
黒焦げになって即死した。建物は衝撃波で全壊した。
 原爆は、病院・学校・教会といった文教施設を直撃した。
爆心地である浦上地区は、住民の約半数がカトリックの信者
だった。原爆を命令した者や投下した者、投下された者が
皆カトリックの信者だった事になる。
 広島同様、長崎にも多くの外国人が暮らしていた。
強制労働に従事させられ
ていた、推定1万3千人前後の朝鮮人。福建省出身の在日
華僑200人。牧師や修道女として来日していた、連合国側
の市民などである。医者も看護婦も、
入院患者も医学生も、浦上天主堂のマリア像もロザリオも、
ジュネーブ条約第2章「傷病兵の保護」などという国際法も、
すべてが一瞬のうちに消えてしまったのである。そして
残ったのは、放射能障害で苦しむ人々と無残な死体と廃墟
の街・・・ファットマンによる直接の死者は、約4万人と
言われている。
 永野長崎県知事は、防空本部の防空壕にいて無事だった。
彼は西部軍管区参謀長らに電報を打ち、手持ちの情報を伝えた。
「敵B29、長崎に新型爆弾投下」の情報は、福岡・熊本・
佐賀の近県に臨時ニュースとして伝えられた。これを受け、
諫早・大村・針尾の海兵団に即刻医療救護班が編成された。
この日の午後には、諫早海軍病院の軍医2名、看護婦
8名を含む13名が現地に到着した。続いて島毅を隊長と
する、針尾海兵団第1次救護隊が到着。大村海軍病院、
佐世保海軍病院の軍医・看護婦が続いた。
 また、奇跡的に軽症で済んだ長崎医科大学外科学教授・
調来助(しらべらいすけ)ら、16名の医者・看護婦・学生も、
当日午後から医療救援に従事。浦上第1病院の医師・
秋月辰一郎らは、翌日から診療活動にあたった。誰もが、
地獄のような状況下にあって、不眠不休の治療救援活動を
続けていた。
 
 午前11時50分。15坪程の、狭くて蒸し暑い宮中
地下室に、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海相、
阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部長の
6名に加え、平沼騏一郎枢密院議長と陸海軍の軍務部長が
陪席して、最高戦争指導会議の「御前会議」が開かれた。
天皇の終戦決断に対し、東郷・米内・平沼が賛同し、阿南・
梅津・豊田が反対した。
 会議は平行線のまま延々と続き、休憩を挟んで深夜にまで
及んだ。8月10日午前2時20分。御前会議の場で天皇は、
ポツダム宣言受諾を最終決断した。世に言う「聖断」である。
昭和天皇・裕仁44歳。宮中上空には、月が煌々と輝いていた。
 長い夜が明けた。午前6時45分、外務省電信課はスイス
の加瀬俊一、スウェ―デンの岡本季正両公使宛てに、
ポツダム宣言受諾の電報を発信した。この日の夜には
「大日本帝国無条件降伏」のニュースが全世界に流れ、
アジア・太平洋全域では大祝賀ムードに酔いしれた。
第二次世界大戦が終わろうとしていた。

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原爆/7 原爆投下はなかった

 1945(昭和20)年8月14日深夜。陸軍航空
士官学校生徒隊付隊長・畑中健二大尉と上原重太郎大尉
らは、クーデターを計画。天皇が終戦の詔勅を録音
したレコードを奪おうとした。近衛第1師団長・森赳中将に
決起を促した。森はこれを拒否。畑中と上原は、ピストルと
刀で森を殺害した。しかしこの反乱は、朝5時までには
鎮圧され、畑中らは自決した。
 8月15日午前5時30分。永田町の陸軍大臣官邸内大臣室
にて、陸相の阿南惟幾大将は、「一死以テ 大罪ヲ謝シ奉ル」
と遺言し、切腹して果てた。楠正成の忠義を尊敬していた、
標準的な軍人だったという。
 この日は、東北・北海道地方は曇りがちで涼しく、東京から
西は晴れて蒸し暑かった。午前6時半。太平洋艦隊司令長官・
ハルゼー提督は、戦艦ミズーリの艦上にあって、航空機による
攻撃中止命令を発した。日本の上空からようやく爆撃機の姿が消えた。
 正午。NHKのラジオ放送が、昭和天皇の終戦の詔勅を、
全国民に向けて発信した。当日の朝日新聞は「大東亜戦争は
遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたった。
科学史上未曾有の残虐なる効力を有する原子爆弾と、
これに続いて突如として起こったソ連の参戦とは大東亜戦争
を決定的な段階にまで追い込んだ」と、終戦に至った経過を
説明している。
 この「玉音放送」の1時間前、蒋介石は重慶中央放送局から
中国および全世界に向けて、日本の無条件降伏をラジオで
告げた。
「〜満州事変から数えれば14年余。日本の中国に対する
侵略行為はここに終結した。その間、中国国民が受けた苦痛と犠牲、
圧迫と汚辱は数限りない。日本が侵略した区域は、東北4省(満州国)を
はじめ、河北から広東、広西まで23省にのぼり、爆撃など
の被害を受けなかったのは、チベット、外蒙などの辺境地域
だけであった。この間戦闘は3万8千931回に達し、
331万1419人の将兵が死傷した。非戦闘員の死傷も
842万人に達し、さらに一家離散、飢餓などの被害者を
加えれば、その数は膨大なものになる。
 一方、公私有財産の直接的損失は、掌握出来ただけで、
略奪された銀行の金銀、破壊された産業施設、交通施設などを、
1937年現在の米国ドルに換算して、313億3千13万
6千ドルに達する。(同年の日本政府支出7億7千万ドル)
 私はこれが世界で最後の戦争になることを希望するとともに、
日本に対する一切の報復を禁止する。中華民族が伝統とする
至高至貴の特性は、「旧悪を念ぜず、人と善をなす」である。
決して日本人民を敵とせず、また敵人のかつての暴行に対して、
報復を加えないものとする。」

 この放送は後に「徳をもって怨みに報いる」の言葉で呼ばれ、
中華民国が日本に対処する基本的信念になった。
事実中華民国政府は、日本に賠償金を要求せず、なけなしの
輸送機関を総動員して、日本人の全員帰国を実現させている。
親日派・蒋介石の「仁愛」は、敗戦国日本の救いとなった。

 一方、8月15日にフイリピンのマニラにいた、アメリカ
太平洋方面陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥は、
トルーマン大統領より連合国最高司令官に任命された。
8月28日午後2時05分、マッカーサーは愛機「C54・
バターン号」のタラップから、コーンパイプをくわえ、
神奈川県厚木飛行場に降り立った。
 占領軍は早速、連合国最高司令官総司令部(GHQ)を設置し、
農地改革、労働改革、財閥解体、教育改革、言論の自由などの
民主化政策を強力に推進した。
1946(昭和21)年5月からは、極東国際軍事裁判
(東京裁判)が開廷された。
東条英機元首相ら7名が、A級戦犯として絞首刑。終身禁固
16名。BC級戦犯5700名のうち、死刑985名、
無期懲役475名。
 キーナン首席検事官は、マッカーサーやイギリス政府からの
進言をうけて、6月18日、東京裁判における天皇訴追問題は
不起訴とした。同年11月3日、前文及び11章103ヶ条
から成る「日本国憲法」が公布された。それは象徴天皇制、
基本的人権の保障、二院制の民選議会などを骨格とし、
戦争の永久放棄をうたっている。

「第二章 戦争の放棄(戦争の放棄・戦力の不保持・
交戦権の否認)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を
 誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または
 武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に
 これを放棄する。

二・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを
 保持しない。
 国の交戦権は、これを認めない。

 歴史には、表もあれば裏もある。言論の自由という表看板
とはうらはらに、GHQは日本に対し、原爆に関する報道を
封じ込めた。原爆使用が非人道的だという世論が形成され、
反米感情が高まってはまずいからだ。
「1945年9月12日付・エルパソ・ヘラルド・ポスト紙・・
広島・長崎で、残留放射能による死者が続出しているという
日本側の報道は大嘘だ。(原爆製造最高責任者だった将軍の談話)」
という記事のように、アメリカ政府は科学者たちに、「1945年
9月末までに、広島・長崎において原爆の放射能で苦しんでいる
人間はいない」と発表させた。
 さらに日本のマスコミに対し「プレスコード」を設定し、
印刷物をすべて検閲した。日本の過去の戦争を正当化する発言、
日本は神の国であるとする発言、米兵の暴行事件、連合国の
対日方針不一致を暴露するもの、そして原爆について
のあらゆる記事である。記者たちは、原爆について書いても
検閲で削られる事を誰もが知っていた。怖かったのは
「発行停止」だった。このようにして、反米的な言葉は全て
排除され、度が過ぎると軍法会議にかけられた。
 日本のジャーナリズムが敗戦国の悲哀を味わう中、間隙を縫って
一度だけ原爆報道は成されていた。
8月22日付朝日新聞西部本社版の記事である。
「残虐の極・原子爆弾 死者八万(軍隊を除く) 道路には
死屍累々」と長崎の惨状を写真と共に掲載し、吉田記者の広島被爆体験記、
渡辺記者の長崎体験記を掲載した。以後1952(昭和27)年夏号の
アサヒグラフに、焼けただれた被爆者の写真が掲載されるまで、原爆報道は
沈黙する事になるのである。
 連合国の対日方針不一致の暴露とは何か。言うまでもなく、
トルーマン対スタ―リンのバトルである。スターリンは北海道北部の
占領と、東京へのソ連軍駐留(東京分割統治)を画策していた。マッカーサー
およびトルーマンはこれを断固として拒否。原爆の無いソ連としては
これ以上強引にはなれなかった。
 またトルーマン大統領は、1951(昭和26)年11月から、
「パネルDジャパン」という、対日心理作戦を秘密裡に
実行した。日本の反米感情を抑える為、あらゆるメディアを
使って情報操作を行うプロパガンダである。ジョンМアリ
ソン駐日大使を委員長とする、PSB(心理戦略評議員会)
が作戦を実行した。その成果もあってか、広島・長崎の惨状は日本人
からも置き去りにされる事になったのである。

 ところがどっこい。広島・長崎の人々は、原爆の残留放射能
によって、地獄の苦しみを味わっていた。放射能は骨髄の
急性障害を引き起こす。極端な白血球やリンパ球の減少で
ある。じわじわと人体を侵し続け、白血病・甲状腺がん・
乳がん・肺がん・多発性骨髄腫・原爆白内障・染色体異常・
体内被爆児小頭症などのさまざまな病気となって現れ、
死に至るのである。病院で、自宅で、がんの激痛にのたうち
まわりながら、やせ細り、原爆投下を呪いながら、数多くの
人々が無念の死をとげていった。
 被爆当日、高温高圧の衝撃波によって、大小無数のガラス片
が肉体を貫いた。ガラスは皮膚に刺さり、血管を切り、筋肉から
骨にまでめり込んだ。40年後・50年後に至るも、体内から
ガラス片が出て来る。
 街には、原爆で身寄りをなくした子供や老人も数多くいた。
絶望して自殺する老人。生存の為に暴力団の手先となって働く
子供たち。体や顔にケロイドの残る、結婚前の女性たち。
広島・長崎の市民にとって、国と国との戦争は終わっても、
原爆との戦いは始まったばかりだった。
 1945年9月初め、チベッツ大佐やスウィーニー大佐
などの「原爆投下」関係者が、長崎市を訪れた。街にはすでに死体はなく、
火傷した人の姿も見えず、復興に精を出す人々が働いているだけだった。
彼らはさほど心の痛みを感じる事もなく、普通の観光客になっていた。

 原爆孤児の救済に立ち上がったのは、広島修道院や
長崎・聖母の騎士などの、カトリック系修道会だった。
広島・流川教会の谷本清牧師は、いわゆる「原爆乙女」と
呼ばれる女性たちの為に、聖書研究グループを組織した。
谷本の呼びかけに答えて、日本ペンクラブの石川達三らが原爆乙女
たちの治療救済を支援した。また作家のパール・バックらは、
1949年3月23日、ニューヨークに「広島ピースセンター」
を設立し、反核運動に立ち上がった。
 1957(昭和32)年9月21日。写真家の土門拳は、
広島赤十字・原爆病院の一室にいた。週刊新潮の依頼により、
戦後の広島を取材に来たのだった。
土門もまた、他の日本人同様、玉音放送も原爆も過去の
出来事だと思っていた。
しかし土門は、原爆の現実に打ちのめされた。病室の
ベッドに寝ている、豊島小学校6年生の梶尾健二は、急性骨髄性
白血病で間もなく死を迎えようとしていた。
 健二は原爆投下当時、母の胎内にいた。母は8月7日に
広島市に入り、伯母を捜して6日間歩きまわった。
健二は胎内被爆者となった。放射能は、ゆっくり
と時間をかけて人間をなぶり殺しにしてゆく毒物である。
「先生・・写真を撮って・・」
この世の理不尽を訴えるような健二の声を、土門は生涯忘れ
なかった。

 日本画家の丸木位里、当時44歳。彼は父親と多くの親戚を
原爆で失った。8月9日広島着。焼けただれ死体の山が連なる街を、
彼は一ヶ月近くもさまよい歩いた。海から川へ逆流した腐乱死体が、
強烈な死臭を放っていた。位里はそこで、一瞬にして命を絶たれた
数多くの霊と対話し、怒りと絶望の闇を自らの魂に刻印した。
 霊は位里と妻の俊の筆を通じて形になった。
1950(昭和25)年、位里と俊の共同制作により「原爆の図
 第一部・幽霊」を完成させた。以後1982(昭和57)年
までに15部を制作。全世界1億人以上の人々がこの絵を
見る事になる。さらに丸木夫妻は、「南京大虐殺の図」
「アウシュビツの図」「水俣の図」「沖縄戦の図」などを
次々に発表。人類社会の闇を告発し続けた。

 修道中学3年生の平山郁夫は、爆心地から2・5キロ
離れた陸軍兵器補給廠の材木貯蔵所にいた。グレートアーティスト号が
投下した、落下傘付き測定機材を目撃した。彼が貯蔵所内に入ったのと、
原爆の閃光とがほぼ同時ぐらいだった。爆風。熱い衝撃波。
底知れない恐怖感に襲われた。平山はその後20時間余を
かけて、生口島瀬戸田町の実家へ避難した。
 20代の平山は、白血球の減少と貧血で何度も倒れ、死の恐怖と直面した。
苦しみもがく友人たちの姿を夢に見てはうなされた。
のたうちまわる精神の、闇の彼方に仏教があった。1959(昭和34)年
平山は「仏教伝来」を描き、日本画家としてデビューする。
だが、広島の被爆体験はトラウマとなって克服出来ずにいた。
 彼がヒロシマを主題に筆をとったのは、戦後34年を
経た1979(昭和54)年の事である。「広島生変図」。
画面いっぱいに描かれた紅蓮の炎。一体の不動明王。
全てを焼き尽くすかのような炎は、平山の内なる闇を昇華へと
導いてくれたのだろうか。
 彼はその翌年から、奈良・薬師寺三蔵院の、高さ2メートル、
幅42メートルの大壁画制作にとりかかった。それは、
玄奘三蔵がインドに仏教を求める17年の旅がテーマだった。
2001年1月1日、壁画は完成し、彼は70歳になっていた。
原爆の後遺症は未だに残っているという。

 
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原爆/8 ヒバクシャ

 少し架空の物語におつきあい願おう。A国の王は、対立する
J国の町の住民10万人を捕虜にした。どの町の住民を選ぶかは、
くじ引きで決めた。捕虜の大半は、女性や赤ん坊、少年少女や
老人、牧師や修道女、教師や医者といった人々だった。
A国の王は捕虜たちを鉄鋼所前の広場に集め、J国への
見せしめの為、捕虜たちを1人ずつ溶鉱炉へ投げ込むよう、
部下の軍団長に指示した。
真っ赤に煮えたぎった溶鉱炉の中は1400度。投げ込まれた
人間は、骨も残さず瞬時にとけ去った。
 しかし10万人ともなると、大変な労力を要した。これからも
10万人ずつと考えていた。王は、もっと簡単な方法はないかと
思った。そこで天才と呼ばれている科学者を呼んだ。
科学者は人工太陽を研究中だった。
「王様、ついに出来ました。」
科学者は薄笑いを浮かべながら言った。
「この人工太陽を使えば、100万人の人間をたった1秒以内に
全員とかすことが出来ます。死体がまったく残りませんから、
残虐だという印象を与えません。D国の王が極悪人扱いされて
いるのは、死体を山積みにしたまま放置して、写真やフィルム
に残っているからなのです。死体さえ消してしまえばいいので
す。人間の想像力とは、しょせんその程度のものにすぎないの
です。」
A国の王は、それを聞いて狂喜した。
 A国の王は、早速それを実行した。その被害は予想を遥かに
超えた悲惨なものだった。A国とJ国はその後、同盟関係を
結んだ。時は流れ、J国の長老は言った。
「人工太陽の使用は、法律に違反するとは言えない。」

 1946年7月。マーシャル諸島ビキニ環礁で、戦後初の
核実験「クロスロ―ド作戦」が行われた。ビキニ島民167人は
約200キロ先のロンゲラップ島に強制移住させられた。
死の灰はロンゲラップ島にも降り注いだ。南海の楽園は
放射能で汚染され、1300人以上が被爆した。
同地域での核実験は、計67回に達した。
 人類史は「核」の時代に突入し、核開発競争が「米ソ冷戦」
と共に加速していった。1949年8月26日、ソ連初の
核実験。1950年1月31日、トルーマン水爆製造を指示。
1952年10月3日、イギリス初の核実験。同年11月1日、
アメリカ初の水爆実験。1953年8月12日、ソ連初の水爆実
験。1954(昭和29)年3月1日、ビキニ水域での水爆実験で
日本の漁船・第5福竜丸被爆。1957年5月15日
、イギリス初の水爆実験。同年8月22日、ソ連ICBМ
(大陸間弾道弾ミサイル)実験成功。1960年2月13日、
フランス初の原爆実験成功。そして1962年10月、
キューバ危機。米ソ対立の果てに、全面核戦争寸前の状況に
なった。
 1964年10月16日、中国初の原爆実験成功。
きのこ雲を見て、兵士たちが狂喜乱舞する姿が印象的だった。
続いて中国は1967年6月17日、水爆実験にも成功した。
中国核の脅威を感じたインドは、1974年5月18日、
初の地下核実験に成功した。まさに泥沼の核開発競争だった。
かつてインド原子力の父・バーバ博士が、ネルー首相に
核爆弾製造を進言した事があった。ネルーは言下に拒否した。
そんな古き良き時代もあった。
 原爆と言えばトルーマンである。1950(昭和25)年
12月1日、全国紙に「原爆の使用も考慮」と、もし中共軍の
朝鮮侵略が成功したならば、共産主義の侵略はアジアや
欧州にも伸びるだろうから、それを阻止する為に原爆を使用
する事も有りうるという記事が載った。
 かくの如くアメリカは、国家安全保障会議の文書で共産主義を
「絶対悪」と定義し、これと戦い勝利する事は「神の意志」
であるとまで言い切った。水爆開発は、共産主義と自由主義の
どちらかが生き残るゼロサム・ゲームになっていった。
核の時代の戦争は、奇妙な論理の世界だった。使ってはなら
ない爆弾が戦力の中心であり、それをいかに使わないかが
戦略の中心だった。そして使わない為の核弾頭の精度を上げ、
実験し、量を増やしていった。軍人たちは
実行出来ない核戦略を緻密に組み立てる事に、膨大な労力と
経費をつぎ込んでいった。
 では日本はと言えば「非核三原則」が守られている。
1967(昭和42)年12月の国会で、佐藤栄作首相が強調
した政策で、「核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず」
というものである。アメリカの核積載艦が日本に寄港する場合、
どこかに核だけを降ろしてくる事はないので、持ち込ませずと
いうのはかなり怪しいところだが、大体は原則通りという
事にしておこう。

 核の時代の始まりは、放射能に対する無知、あるいは
無神経から始まる。その実例をいくつか紹介しよう。
南太平洋やネバダ砂漠におけるアメリカの原水爆実験の際、
アメリカ軍兵士たちは、きのこ雲のサンプルを採集させられ
たり、きのこ雲へのパラシュート降下訓練をさせられている。
ハンフォード核兵器工場では、放射能を大気中に放射する
実験が行われ、地域住民に白血病や甲状腺がんが多発した。
 この工場勤務者には、骨肉腫や脾臓がんが多発し、先天性
奇形の新生児も500人近く生まれている。医学的には放射能
と白血病・癌などの病気との因果関係は確定的であるにも
かかわらず、これを否定し続ける政治家や官僚が多数存在している。
 旧ソ連では、1965年から1988年までの24年間に、
石油やガスの資源調査に39回、石油採取の為に21回、
地下ガス貯蔵施設建設や貯水池・ダムの建設に35回、
ガス採取に1回、核爆発が行われた。むろん貯水池やダムは死の
湖になったままである。放射能の危険性について、
知らなかったのか、何も知らされていなかったのか。
いずれにせよ、大量の「ヒバクシャ」を生み出した事だけは
間違いない。
 これまでに行われてきた核実験は、2千回以上にのぼる。
旧ソ連のセミパラチンスク核実験場は、1991年8月に閉鎖されたが、
周辺住民の放射能汚染まで消去出来たわけではない。加えて
アメリカ・スリーマイル島やロシア・チェルノブイリでの
原発事故がある。ベラルーシ共和国には、チェルノブイリ事故
で放出された放射能の約7割が降り注いだ。その結果、
特に子供たちの甲状腺がんの発生率が、通常の70倍を
超えたという。
 むろんベラルーシでは、大人たちのがん発生率も急増している。
肺がん・胃がん・乳がんを中心に、40パーセント以上の増加率である。
もしも欧米社会が広島・長崎の被爆の現実を直視し、
放射能の怖さを啓蒙していたならば、かなりの数の
「ヒバクシャ」を出さずに済んだだろう。その数、
2500万人以上と言われている。

 1971年、第3次印パ戦争に敗れたパキスタンの
ズルフィカル・アリ・ブット首相は、「草を食み、餓えて
でも核を持つ」と公言した。イスラムに核兵器を、という
合言葉でリビア、アラブ産油国から資金援助を受け、
中国の技術協力のもと、パキスタンは核開発を進めていった。
 一方1974年の核実験の後、24年間実験を凍結していた
インドで、1998年インド人民党のバジパイ政権が
誕生した。彼は核兵器導入を公約し、「インドの誇りの為に
命がけで取り組む」と国民に訴えた。かくして
「オペレーション・シャクティ(力の作戦)」はスタート
した。5月9日、ポカラの核実験場に運ばれたプルトニウム
爆弾を地下へ埋め込み、爆発実験が行われた。米軍の軍
事偵察衛星の目を盗んでの作業だった。11日に3回、
12日に2回、実験は続けて行われ、いずれも成功した。
 パキスタンは喉元に核ミサイルを突きつけられた。
アメリカはパキスタンに対し、安全保障の確約は出来なかった。
13日、シャリフ首相は国防会議を招集した。折しもカシミール州で
印パの対立が激化し、砲撃戦が始まった。国内ではデモが激しくなり、
核実験を行わないと反政府暴動が起こりかねない状況になっていた。
パキスタンの世論調査では、国民の70パーセント以上が
核実験を支持していた。
 5月20日、シャリフ首相は決断した。5月27日午前9時、
核兵器がカーン実験場へ運ばれ、最終点検が行われた。
シャリフ首相はアメリカのクリントン大統領からの電話で、
25分にわたって実験中止の説得をうけていた。シャリフ首相は
言った。
「私にも実験を止める事は出来ません。」
 5月28日、5回にわたってパキスタンの核実験が行われた。
国民は歓喜し、「アッラーは偉大なり」を絶叫した。
これを受けてイラン外相がパキスタンへ飛び、軍事同盟の
強化について話し合った。記者会見の席上、イラン外相は言った。
「われわれイスラムの核の力が、イスラエルを抑える」と。
 核兵器の「力」に対する信仰は、決して衰えていない。
インドの世論調査では、91パーセントが「核実験を誇りに思う」
と答えている。広島・長崎の惨状を多少なりとも知る日本人にとっては、
かなり絶望的な数字と言える。この子供じみた熱狂は、
「原爆でぶっとばせ」とフットボールチームに声援を送る
アメリカの女子学生の姿と重なるものがある。
彼らは何も知らないのだ。
 
 1978年ニューヨークの国連軍縮特別総会が開催された時、
国連本部の廊下に広島・長崎の原爆被害者の写真を展示する
提案が成された。だが入手した写真を見て、国連の方々は
あまりの悲惨さに愕然とした。このような残虐な写真を
果たして展示してよいものか。あまりに刺激的過ぎるのでは
ないか、というのである。
 国連のお偉い方々というのは、想像力がまるで無いらしい。
たとえばニューヨークなり、パリなりローマなりに、
直径300メートルの人工太陽が突如出現したならば、
その中の人間の肉体がいかなる事になるのか、想像してみる
といい。熱は100万度、衝撃波の圧力は数万トンと仮定して。
 オランダのハーグ国際司法裁判所では、核兵器の使用は
国際法に違反するかという、あまり意義深くない議論が成
されている。しかも外務官僚を中心とする日本政府の立場
としては、「違法とまでは言えない」というものである。
確かに日米安保やら日中関係など、核保有国との外交関係を
考慮すると、このような不思議な論理にならざるをえないの
かもしれない。だがそれでは、せっかく戦力放棄の平和憲法
を持ち、非核三原則を守り、広島・長崎での被爆体験を持つ
国の発言としては、かなりお寒い。
 原爆はナチスに対する怖れから生まれた。怖れはさらなる怖れを
呼び、さらなる怖れをつくり出す。
1957年4月16日。旧西ドイツの核武装計画に対し、ナチスの
原爆製造に抵抗したハイゼンベルクら18人の科学者は、
次のような声明を発表した。
「いかなる原爆の製造、実験および使用にも、参加する
ことを断固として拒否する。」
ハイゼンベルクが「何をしなかったのか」に対して、
あるいは不動の信念に対して敬意を表したい。
 

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原爆雑記1

 最初原爆について書き始めたのは、1994年9月だった。
何も、戦争反対や核廃絶を意図しての事ではなかった。私の
中の文脈では、ホスピス取材の続きだった。つまり「癌と
白血病」について掘り下げてゆくと、原爆症はどうしても
外せないエリアだった。
 しかし原爆を書く事は、最初から躊躇が先に立った。私個人
はもちろんの事、親戚まで広げても広島・長崎の原爆に関係
する人物はいなかった。かろうじて広島観音高校H組出身の
友人が1人いるだけだった。まったくの「部外者」が、
もっともらしく書いていいものかどうか、迷いに迷った。
 こういう時、意識の迷いとはうらはらに、無意識の指導原理
は、私を促すように、次から次に原爆投下の核心に関わる
資料や情報を提供し始めるのである。中でも衝撃的だったのは、
「ヒロシマ爆心地・生と死の40年」だった。原爆投下地点
から半径500メートル以内は、死亡率98.4パーセント。
推定2万1千人が死亡している。その中で奇跡的に生き残った
人たちの証言集である。
 原爆は別名「ピカドン」と呼ばれていた。強烈な閃光と
爆発音ゆえである。路上で生き残った立野つねこさんによると、
ピカでもドンでもなく、真の闇よりも深い闇だった・・との
事だった。彼女は口からあふれ出た胃袋や腸を抱えてもがき
苦しむ人を目撃している。
 アニメ「はだしのゲン」で、投下直後両眼球がどろーんと
垂れ下がった映像を見て衝撃を受けたが、まさかここまでとは
想像だにしていなかった。原爆投下の詳細な資料を見たら、
1平方メートルあたり12トンの圧力とあった。そんな圧力
が人間の体にかかったならどういう事になるのか・・これが
わかった時点で、初めて納得出来た。甘かったと思った。
私は原爆について、何も知らなかった事を恥じた。
 原爆を伝える資料は、原爆ドームや焼け焦げた弁当、重度の
熱傷を負った写真などが有名だが、爆心地の惨状を伝達・表現
する手段は、文字かアニメ、コンピューターグラフィックなど、
時間を自在に引き伸ばせる媒体しかないと思った。だが本当に
書けるのか? 私は心底恐かったし、書ける自信もまるでなかった。

 実際、書けなかった。初稿は広島に原爆を投下する所で終了
し、気力が尽きたまま1年間寝かせる事になる。その1年の
間に起きたのが、1995年1月17日の阪神淡路大震災と、
オウム真理教事件だった。原爆の闇に洗脳集団の業(カルマ)と
向き合いつつ、私は人類の業とは何か・・という重い課題に
挑み始める事になった。
 救世主でもあるまいし、人類などという課題は重過ぎる・・・
と半分ふてくされつつ、私は朝まで生テレビなどの議論を
見ていた。人類はともかく、ものを書く人間としての「在り方」
に立ち戻って熟慮した。

「ペンを持つ人間こそ、書かなくてはならないんです。作家も
そうでしょう。「知」つまり「慈」を「悲」の方へ引きずり
下ろして、字を知らない人にも思想を伝える任務が、書く人間
にはあります。それにはエネルギーが要求される。力のありよう
も、望むらくは雨だれ石でありたい。しずくにも石に穴をうがつ
力がある。泥が深いほど、ええ蓮が生まれるんやないか。」
作家・水上勉の、滋養がある深い言葉である。

 私は原爆の闇をイメージして深い瞑想に入った。その中で
声が聴こえた。
「書いてください・・・」
原爆で命を落とした人々総ての総意だと言う。1995年秋、
私は意を決し、歯を食いしばって、爆心地の惨状を書き始めた。
ものを書いている時というのは、その現実を追体験している
のに等しい。その体験に、言葉がついてこれなかった。

posted by 亀松亭 at 09:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原爆雑記2

 8月1日から6日広島9日長崎15日終戦に合わせて、
リアルタイムで「原爆」の原稿をUPしてみた。
8月の酷暑の中で、実際の時間経過に合わせて読んで
みると、改めて気づく事が多かった。まずこの暑さである。

「傷病兵の傷口にハエがたかる。すぐにウジがわく。ウジ
が重なり合い、膿を吸う。その音が聞こえる。痛さに大の
男が七転八倒する。壕内はウジ・膿・汗・血・重油・土
の匂いに満ちていた。瀕死の兵が遺言を聞いてくれと懇願
する。死んだ兵を畑に葬むりに行く。
 (沖縄戦/看護要員の手記) 」

真夏の沖縄の洞窟の中・・・暑かっただろうなと思う。
ただじっとているだけでも、汗が吹き出してくるというのに。
チーム亀松のマイミクにも、沖縄戦の看護要員と同じ年頃の
看護師+助産師がいる。私の想像力の中で、62年の時間
が重なってゆくのだった。
 歴史という時空間の中で、いかにして想像力を用いて
ゆくのか。まず自分や友人・家族など身近な人たちと共通
する部分を見つけてゆく。
「打出の小槌を貰ったら 私は何を出しましょう
 羊羹 カステラ 甘納豆 (金子みすず)」
大正時代の詩人・金子みすず20歳の願望だ。サイパンで
患者に青酸カリを渡した看護婦も、沖縄戦の看護要員も、
広島の川で君が代を歌いながら死んでいった女学生も、
甘い物が大好きな女の子だったに違いない。
 次に違いも見つけよう。もし私ならば、死ぬ直前に
君が代は歌わないだろう。海ゆかばは歌詞もメロディも
よく知らない。死ぬ前に何を歌おうか? そうだ・・
TheBoomの「風になりたい」がいい。

♪・・天国じゃなくても 楽園じゃなくても あなたに
 逢えた幸せ感じて 風になりたい・・♪
葬式の時も、この曲がいいかな(^^;)

もしこの時代にこの教えを受けて、この状況だったなら、
自分もこういう行動をしたのではないか? そういう
想像力を働かせてみるのだ。

posted by 亀松亭 at 09:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原爆雑記3

 新聞などのジャーナリズムでは、他社を出し抜いてわが社
独自のニュースを発信する「特ダネ」というものがある。
これとは逆に、当然書いていなければならないネタを書いて
いない状態を「特落ち」と言う。
 私は原稿をチェックしながら、何か「特落ち」があるのでは
ないかという気がしていた。2007年8月5日・・仙台七夕
前夜祭の花火を見物した後、帰宅してテレビをつけると、
広島で被爆した原爆作家・大田洋子の事を放送していた。
彼女は原爆投下後の街は「異常なほど静かだった」と語っていた。
この言葉を、うっかり聞き流してしまうところだった。
原稿を書いた時は人間に意識を集中するあまり、全体の状況
まで観えていなかったのだ。
 夏になると、あまりにもあたり前に聞こえている音・・・
そうなのだ・・原爆投下後は人間だけでなく動植物の一切が
死滅したのだった。セミ時雨の音などあるはずがなかったのだ。
小鳥の声も、電車の音も、ラジオの音も、人間のざわめきも。
静かなはずだ。
posted by 亀松亭 at 09:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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